の爲に厄禍に罹つた種族はあるまい。金時代に辮髮の令發布されてから、今日まで約八百年、明の三百年足らずを除くと、その餘の五百年の間、漢人――殊に北支那の漢人――の多くは辮髮をして居つたので、この辮髮の強制には、必ず怖るべき威嚇殺戮が伴つて居る。明・清革命の際、若くば髮匪興起の際に當つて、辮髮すれば南軍に殺され、蓄髮すれば北軍に誅せられるといふ有樣で、兩軍の間に立つた漢人が、その頭髮の處置に窮したことは、吾人の想像以上である。頭髮の爲に古今幾十百萬の漢人が、その生命を失つた。實に世界稀覯の奇現象といはねばならぬ。(一月十四日稿)

參照
(1)『説郛』※[#「弱」の片側のみ、452−8]第五十五
(2)『大金國志』卷三十九
(3)De Harlez ; Niu−tchis et Mandchous, rapports d'Origine et de Language(J. A. 1888). p. 248.
Lacouperie ; The Djurtchen of Mandshuria(J. R. A. S. 1889). p. 454.
(4)(5)『大金國志』卷五
(6)『續資治通鑑
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