、翌千六百五十六年(順治一三)の七月に北京に入り、順治帝に拜謁して居る。この一行に加つた Nieuhoff の記録によると(30)、直隷・山東の二省は、初め極めて柔順に韃靼軍に歸服したが、一旦辮髮の令が出ると共に、俄然大抵抗を企て、その頭髮を保護せん爲に、幾千の死人を出して居る。北支那でも當初辮髮反對熱の隨分高かつたことがわかる。
六
時は一切を軟化せしむる魔力をもつて居る。最初死ぬ程辮髮を嫌つた漢人は、流石に康煕の末頃までは――Careri の『世界一週記』にも明記せるが如く(31)――頗る辮髮を喜ばなかつたが、雍正・乾隆・嘉慶と年を經る儘に、次第に辮髮に慣れて來て、果ては髮の編み樣、頭の剃り樣に、追々流行を競ふ有樣となつた。清の中世以後となると、漢人がその辮髮を大切にすることは一通りでない。五天一打辮子、十天一剃頭とて、五日毎に一囘辮子を編み直し、十日毎に一度頭髮を剃るのが、普通であるけれども、之では滿足出來ぬ者が尠くない。天子諒闇の時は、可なり長い期間、臣民は一切剃頭出來ぬ規定であるが、この期間を待ち詫び、官憲の目を掠め、或はその默許を得て、剃頭鋪《かみそ
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