詳にせぬといふことである。(28)
 この記事には年月を繋けてないが、彼がローマへ出發する西暦千六百五十年頃の出來事なるは疑を容れぬ。西暦千六百五十年頃は、正しく朝鮮の孝宗時代に當つて、當時朝鮮と支那との國際關係頗る不穩の状態を呈し、已に順治七年(西暦一六五〇)には、清廷より朝鮮に對して、「其修[#レ]城集[#レ]兵整[#二]頓器械[#一]之事、※[#「山/而」、第4水準2−85−6]《モツパラ》欲[#二]與[#レ]朕爲[#一レ]難也。(中略)朕惟備[#レ]之而已。夫復何言」といふ勅諭を發して居る位である(29)。されどこの紛爭は衣冠の變更とは關係ない樣に思はれる。一寸清・韓の史料を調査した所では、Martini の記事を其の儘に信用する譯にはいかぬ。或は Martini の訛傳か、或は吾輩の調査の不行屆かは、更に他日の研覈に待たねばならぬ。
 Martini は支那から歐洲への歸途に、Batavia に立ち寄つて、そこの蘭人に明が滅び、新に興つた清朝はむしろ海外通商に好意を有する由を告げた。之に動かされて蘭人は清朝へ使節を派遣することとなつた。西暦千六百五十五年に派遣された使者一行は
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