レ]存、薙亦見[#レ]羞の詞を殘した傅日炯がある。更に奇拔な者には、其の頭髮を埋めて髮塚を立て、自から嚢雲髮塚銘を作つた周齊曾がある。その他海島に遁がれた者、山林に隱れた者は、一々列擧するに暇がない。昨年上海で出版された『滿夷猾夏始末記』中に、髮史の一篇がある。不充分ながら清初の辮髮に關係ある事件を集録してあつて、幾分の參考に供することが出來る。

         五

 更に飜つて明・清革命の際に關係ある二三歐人の記録を繙くと、漢人が如何に激しく辮髮に反對したかが一層判然する。第一に 〔d'Orle'ans〕 の『支那を征服せし韃靼二帝の歴史』は、當時の光景を次の如く描いて居る。
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辮髮・胡服の新制は、痛く漢人の反感を招いた。彼等は所在に滿洲政府に對して叛亂を起した。漢人は異族に羈絆さるるよりも、その羈絆の徽號《シンボル》として辮髮・胡服を強制さるることを、大屈辱と信じて居る。さきにその頭を斷ざらんが爲に、羊の如く柔順であつた漢人は、今やその髮を斷ざらんが爲に、虎の如く奮起した。當時若し江南の明の諸王がよく一致して、内訌を釀さなかつたら、滿人が果してよく支那を統
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