胡服を命じたので、その決心の鞏固なる一端を察知することが出來る。
然し夷を以て華を變ぜんとするこの規定は、當時の漢人――保守的自尊的で、殊に父母より受けたる身體髮膚を毀傷せざるを孝道の始と信じて居る漢人――の反感を招いたことは想像以上である。清廷も漢人の反感の大なれば大なる程、愈※[#二の字点、1−2−22]嚴重に辮髮を※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行し、留[#レ]頭不[#レ]留[#レ]髮、留[#レ]髮不[#レ]留[#レ]頭といふ制札を、江南地方に掲示させた(25)。之に關せず漢人は猶も頑強に護髮の決心を捨てぬ。江陰の虐殺も、嘉定の屠城も、畢竟この衝突の一結果たるに過ぎぬ。南風競はずして、大勢不可と極つた時でも、頭可[#レ]斷、髮不[#レ]可[#レ]薙と豪語した左懋第がある。膝不[#レ]可[#レ]屈、髮不[#レ]可[#レ]披と壯言した余煌がある。欲[#下]將[#二]鬚髮[#一]還[#二]千古[#一]、※[#「てへん+弁」、読みは「べん」、448−6][#二]取頭顱[#一]擲[#中]九逵[#上]の句を留めた王之仁がある。勢不[#レ]可[#レ]爲、髮膚將[#レ]獻、畜固難[#
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