一し得たか否かは、頗る疑問に屬したのである。(26)
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〔d'Orle'ans〕 の著書は西暦千六百八十八年の出版で、時代はやや後れて居るけれども、その記事は當時支那在住の耶蘇教士、殊に Adam Schall 即ち湯若望の報告に本《もとづ》いたもので、頗る信用すべきものである。
〔d'Orle'ans〕 の著書より一層參考に供すべき材料として、有名なる Martin Martini の『韃靼戰記』がある。Martini は漢名を衞匡國といふ。耶蘇教會の宣教師で、明・清鼎革の際の前後にかけて、約十年間南支那に滯在して、親しく當時の實地を目撃した人であるから、その記事の信憑すべきは申す迄もない。彼の『韃靼戰記』には、辮髮に關する記事尠からざる中にも、浙江省紹興府に就いて、次の如く敍述して居る。
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韃靼軍は格別の抵抗を受けずに紹興府を占領した。浙江省南半の府縣も、容易に征服し得べき形勢であつたが、然し韃靼軍が新に歸順した漢人に辮髮を強制するや否や、一切の漢人――兵士も市民も――は皆武器を執つて起ち、國家の爲よりも、皇室の爲よりも、寧ろ自家頭上の毛
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