の兩隅から蟀谷《こめかみ》まで、頭の兩側を剃り下げる。頭の後部も同樣|頸窩《ぼんのくぼ》まで剃り下げる。前頭には一束の髮を殘して、その餘は剃り捨てる。この殘した一束の髮はその儘眉際まで垂れ散らし、頭の左右兩側に存する髮は、編みて兩耳の邊に辮髮とする。(13)
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 Rubruck に先だつて、ローマ法皇の使節として、蒙古の定宗の廷に往つた Plano Carpini 、同じくローマ法皇の使節として、ペルシアの Baidjou の營を訪うた Anselm 等も、蒙古人の辮髮に就いて參考すべき記録を傳へて居る(14)。此等の記事を漢籍のそれと比較すると、蒙古人の辮髮の有樣は容易に理會される。『中國歴代帝后像』に收むる所の、元の諸帝の肖像を參照すると、一層理會を容易ならしめる。

         三

 辮髮種族の蒙古人が支那を統一した時、その主權の下に立つた漢人の多くは、辮髮したものと見える。蒙古時代には朝鮮でもペルシアでも、蒙古人の直間接の支配を受けた地方では、一律に辮髮が流行した。西暦十三世紀の頃に、ペルシア地方では耶蘇教徒たると囘教徒たるとを問はず、多く皆辮髮をして居つた。(15)
 朝鮮では高麗の元宗の時、始めて蒙古の風俗採用の議が出たが、實行されずに濟んだ(16)。元宗の子の忠烈王は早く蒙古に質となり、殊に元の世祖|忽必烈《フビライ》の女、忽都魯掲里迷失《クツルガイミシ》(Khutlgaimish)公主をその妃に迎へた關係から、早く辮髮・胡服して得意滿面であつた(17)。西暦千二百七十四年に彼が元から歸り、父元宗の後を承けて高麗王となると、劈頭にその國人の辮髮せざる者を叱責して居る。かくて大臣先づ辮髮を行ひ、後ち四年にして千二百七十八年に、國内に辮髮の令を下した。
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忠烈王四年二月。令[#二]境内[#一]皆服[#二]上國(元)衣冠[#一]開剃。蒙古俗剃[#レ]頂至[#レ]額。方[#二]其形[#一]留[#二]髮其中[#一]。謂[#二]之開剃[#一]。(18)
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辛※[#「しめすへん+禺」、読みは「ぐ」、445−6]の十三年(西暦一三八七)に辮髮・胡服を廢して、大明の衣冠をとるまで(19)、約百十年間、朝鮮の官吏、學生等は皆辮髮したのである。
 朝鮮やペルシアの例から推測すると、蒙古の支配を受け
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