者は次の如くである。
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上至[#二]成吉思《ジンギス》[#一]、下及[#二]國人[#一]、皆剃[#二]婆焦[#一]、如[#二]中國小兒[#一]。留[#二]三搭頭〔髮?〕[#一]。在[#二]※[#(ノ/(囗<メ)/心)+頁」、第3水準1−93−94]門[#一]者、稍長則剪[#レ]之。在[#二]兩下[#一]者、總小角垂[#二]於肩上[#一]。(11)
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鄭所南の記事も略同樣である。
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韃主剃[#二]三搭辮髮[#一](中略)云[#二]三搭[#一]者、環剃[#二]去頂上一彎頭髮[#一]。留[#二]當[#レ]前髮[#一]、剪短散垂。却[#二]析兩旁髮[#一]。垂[#二]綰兩髻[#一]、懸[#二]加左右肩衣襖上[#一]。曰[#二]不狼兒[#一]。言[#下]左右垂髻礙[#二]於囘視[#一]、不[#上レ]能[#二]狼顧[#一]。或合辮爲[#レ]一。直※[#「てへん+施のつくり」、第3水準1−84−74]垂[#二]衣背[#一]。(12)
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 此等の記録によると、蒙古人は前頭と左右兩側頭に髮を留めて、他は皆剃り去つたものと見える。前頭に留めた髮は、今日の南支那の婦人の前髮の如く、その儘に垂下し、兩側頭に留めた髮は、之を辮み綰げて、幾分わが古代の耳鬘《みづら》の如くして、その餘端を垂下したのである。鄭所南の記する所によると、左右兩旁の留髮を合せて一辮となし、宛《あたか》も滿人の辮髮の如く、背後に垂下したものもある樣であるが、然し之は稀有の場合で、普通は左右両耳の後に二個の辮髮を垂れたものである。『竹崎季長蒙古襲來繪詞』を見ても、國中の蒙古人は皆二個の辮髮――不思議に何れも前頭の留髮はないが――を垂れて居る。
 蒙古人の辮髮のことは、當時東亞へ旅行して來た西洋人の紀行を見ると、一層明瞭である。蒙古時代に東洋に旅行した西洋人の紀行は可なり多いが、中でも William of Rubruck の紀行が一番好い材料を供給する。Rubruck はフランス王の命を奉じて、蒙古の憲宗の廷を訪ひ、西暦千二百五十三年の十二月から、翌千二百五十四年の八月まで、約九ヶ月間蒙古に滯在した人である。彼は蒙古人の辮髮に就いて下の如く記して居る。
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男子は皆その頭の頂上を四角形に剃り開き、この四角形の前方
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