れてから、中國の半を占領することとなつた。今の地理でいへば、直隷・山西・山東・陝西・河南の諸省、及び江蘇・安徽二省の北部は、金の版圖に歸したのである。かくて金の太宗の天會七年(西暦一一二九)に、始めてその領内の漢人に對して、胡服・※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]髮の令を下した。
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是年六月行[#二]下禁[#一]。民漢服及削髮不[#レ]如[#レ]式者死。(4)
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この禁令は決して空文でなかつた。實際頂髮式に背いた爲、又は漢服を着けた爲に、死罪に處せられた者がある(5)。宋の官吏で金の手に捕はれた者は、何れも辮髮を強いられた。青州の觀察使李※[#「しんにょう+貌」、第3水準1−92−58]、保義郎李舟(6)、右武大夫の郭元邁(7)等は、何れも宋の忠臣として、髮を惜んで義に死した人々と傳へられてゐる。宋の周※[#「火+單」、読みは「せん」、442−9]の『北轅録』(8)や、宋の樓鑰の『北行日録』(9)等、南宋時代に金へ使した人々の紀行を見ると、金の領内の漢人が、女眞服を着けて居つたことを明記してある。已に胡服する以上、彼等は同時に辮髮して居つたものと推察される。
金の章宗の承安五年(西暦一二〇〇)に、女眞人・漢人等の拜儀に就いて議論があつた時、司空の完顏襄が、
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今諸人袵髮皆從[#二]本朝(金)之制[#一]。宜[#レ]從[#二]本朝拜[#一]。(10)
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と主張して、その説が實行された。是によつても當時金廷の官吏は、女眞人と漢人との別なく、一律に胡服・辮髮したことがわかる。之を天會七年の※[#「髟/几」、第4水準2−93−19]髮の令と對比すると、金一代を通じて漢人――少くとも漢人で官吏たる者――の辮髮した事實に就いて、殆ど疑を挾むべき餘地がない樣である。
二
金の後に蒙古が興る。蒙古は西暦千二百三十四年に先づ金を滅ぼし、續いて千二百七十六年に、南宋を併せて天下を統一した。この蒙古も女眞と同樣、辮髮種族であるが、辮髮の形は可なり相違して居る。蒙古人の辮髮のことは、諸書に散見して、一々列擧するに暇ない程であるが、中に就いて宋の孟※[#「王へん+共」、第3水準1−87−92]の『蒙韃備録』と、宋の鄭所南の『心史』との記事が、尤も委細を盡して居る。前
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