レ]存、薙亦見[#レ]羞の詞を殘した傅日炯がある。更に奇拔な者には、其の頭髮を埋めて髮塚を立て、自から嚢雲髮塚銘を作つた周齊曾がある。その他海島に遁がれた者、山林に隱れた者は、一々列擧するに暇がない。昨年上海で出版された『滿夷猾夏始末記』中に、髮史の一篇がある。不充分ながら清初の辮髮に關係ある事件を集録してあつて、幾分の參考に供することが出來る。
五
更に飜つて明・清革命の際に關係ある二三歐人の記録を繙くと、漢人が如何に激しく辮髮に反對したかが一層判然する。第一に 〔d'Orle'ans〕 の『支那を征服せし韃靼二帝の歴史』は、當時の光景を次の如く描いて居る。
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辮髮・胡服の新制は、痛く漢人の反感を招いた。彼等は所在に滿洲政府に對して叛亂を起した。漢人は異族に羈絆さるるよりも、その羈絆の徽號《シンボル》として辮髮・胡服を強制さるることを、大屈辱と信じて居る。さきにその頭を斷ざらんが爲に、羊の如く柔順であつた漢人は、今やその髮を斷ざらんが爲に、虎の如く奮起した。當時若し江南の明の諸王がよく一致して、内訌を釀さなかつたら、滿人が果してよく支那を統一し得たか否かは、頗る疑問に屬したのである。(26)
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〔d'Orle'ans〕 の著書は西暦千六百八十八年の出版で、時代はやや後れて居るけれども、その記事は當時支那在住の耶蘇教士、殊に Adam Schall 即ち湯若望の報告に本《もとづ》いたもので、頗る信用すべきものである。
〔d'Orle'ans〕 の著書より一層參考に供すべき材料として、有名なる Martin Martini の『韃靼戰記』がある。Martini は漢名を衞匡國といふ。耶蘇教會の宣教師で、明・清鼎革の際の前後にかけて、約十年間南支那に滯在して、親しく當時の實地を目撃した人であるから、その記事の信憑すべきは申す迄もない。彼の『韃靼戰記』には、辮髮に關する記事尠からざる中にも、浙江省紹興府に就いて、次の如く敍述して居る。
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韃靼軍は格別の抵抗を受けずに紹興府を占領した。浙江省南半の府縣も、容易に征服し得べき形勢であつたが、然し韃靼軍が新に歸順した漢人に辮髮を強制するや否や、一切の漢人――兵士も市民も――は皆武器を執つて起ち、國家の爲よりも、皇室の爲よりも、寧ろ自家頭上の毛
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