骼者の肉は食はぬ(Yule and Cordier; Marco Polo. vol. I, p. 301)。
[#ここで字下げ終わり]
と述べて居る。茲にいふ「此等の人民」とは、指す所やや曖昧であるが、上都地方の住民――北支那人及び蒙古人――を意味するものと想ふ。兔に角その風習は支那人のそれに似て、Solayman の記事(※[#ローマ数字I、1−13−21])と一致する。支那人は時に病死者の肉を、甚しきに時は墓中より掘り出した屍肉すら食ふこともあるが、こは特別の場合に限り、普通は殺害した、又は殺害された人肉を食ふのであるから、Marco Polo や Solayman の所傳は、大體に於て間違がない。
支那人は父兄の讎に對して、不倶戴天の強い反感をもつ。已に『禮記』にも、
[#ここから2字下げ]
子夏問[#二]於孔子[#一]曰。居[#二]父母之讎[#一]。如[#二]之何[#一]。子曰。寢[#レ]苫枕[#レ]干。不[#レ]仕。弗[#三]與共[#二]天下[#一]也。遇[#二]諸市朝[#一]。不[#レ]反[#レ]兵而鬪(『禮記註疏』卷七、檀弓上)。
兄弟之讎。不[#レ]反[#レ]兵(『禮記註疏』卷三、曲禮上)。
[#ここで字下げ終わり]
と明記してある通り、儒教は復讎主義を是認し、又奬勵して居る。故に支那人は父兄の讎を尤も惡むべき怨敵と認め、その復讎の場合には、單にその生命を絶つのみを以て滿足せず、往々その骨肉心肝を食ひ盡くして仕舞ふ。西晉末の※[#「言+焦」、第3水準1−92−19]登は、その父を殺害した馬晩を斬つて、その肝を食し(『欽定古今圖書集成』人事典卷二十一所引、東晉の常※[#「王へん+據のつくり」、第3水準1−88−32]の『西川後賢志』)、東晉初の趙胤は、その父趙誘の讎なる杜會を斬つて、その肺肝を食した(『太平御覽』卷四百八十一所引、東晉の王隱の『晉書』)。東晉時代に出た謝混が、その父兄の讎に當る張猛を殺して、その肝を食つたことが、『晉書』卷七十九の謝※[#「王へん+炎」、第3水準1−88−13]傳に見えて居り、同時代の馬權が、その兄の讎なる※[#「棊」の「木」に代えて「糸」、第3水準1−90−9]母翊を殺して、その肝を食つたことが、『十六國春秋』卷九十七の北涼録四の馬權傳に見えて居る。馬權はもと胡人であるが、當時の支那人間に行はるる風習にならつて、讎の肝を食したものらしい。隨初の王頒は、その父が陳の武帝に殺害されたのを怨み、隋の征南軍に加つて陳を滅ぼし、武帝の陵を發いて、その骨を焚き水に混じて之を飮んだといふ(『隋書』卷七十二、孝義傳)。唐初の王君操は、父の讎なる李君則を刺殺し、その腹を刳き、心肝を取り出して、立所に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食し盡した(『舊唐書』卷百八十八、孝友傳)。特に心臟や肝臟を食する場合の多い理由は、已に Groot の注意せる如く、この心肝は生命の根源として、支那人一般に信ぜられて居るからである(The Religious System of China. Vol. IV, pp. 373−374)。その仇敵の心肝を食ひ盡くすことは、彼の生命に對して、最後の、同時に最大の打撃を與へ、その復活を不可能ならしむる所以に外ならぬ。
怨敵の肉なり骨なり心肝なりを食して、鬱憤を晴らすといふのが、支那人古來の風習である。近く西暦千八百九十五年の八月に、廣東地方の或る村落間に水論が起り、兩派に分かれて激しい爭鬪を續けた。この爭鬪の間に、雙方とも多くの死傷者を出し、又若干の捕虜が出來た。此等敵の捕虜は、やがて殺害せられ、その肉は村童仲間へ食料として分配されたと、信用すべき當時の英字新聞は傳へて居る(Ball; Things Chinese. p. 128)。支那の淫書に『覺後禪』がある。その卷三に艶芳といふ婦人が、情人未央生の變心を疑ひ、之を責めた書翰中に、
[#ここから2字下げ]
從[#レ]此絶[#レ]交。以後不[#レ]得[#二]再見[#一]。若|還《マタ》再見。我必咬[#二]|※[#「にんべん+爾」、第3水準1−14−45]的《ナンヂノ》肉[#一]。當[#二]做猪肉狗肉[#一]吃也。
[#ここで字下げ終わり]
と述べて居る。婦人の文句としては、隨分興覺めたものだが、之も支那人間に、怨家の肉を喫食する風習の存在することと關聯して、始めて了解し得る文句である。
やや事情を異にするが、宋の魯應龍の『閑窓括異志』(『稗海』本)に載せてある左の記事も、亦支那人の Cannibalism を研究するに當つて、一應參考に資すべき材料と思ふ。
[#ここから2字下げ]
江南平。建州有[#二]大將余洪敬[#一]。妻鄭氏有[#二]絶色[#一]。爲[#二]亂兵所[#一][#レ]獲。獻[#二]於裨將王建峰[#一]。遇以[#二]非禮[#一]。鄭志不[#レ]可[#レ]奪。脅以[#二]白刃[#一]。不[#レ]屈。又命引[#二]所[#レ]掠婦人[#一]。令[#二]鄭殺以食[#一][#レ]之。謂鄭曰。汝懼乎。曰此身寧早充[#二]君庖[#一]。誓不[#レ]可[#下]以[#二]非禮[#一]汚[#上レ]我。
[#ここで字下げ終わり]
婦徳を失はんより身命を擲たんとする、鄭氏の貞節も感心すべきであるが、怒を犯して命を喪ふことを、充[#二]君庖[#一]――料理の材料に供する――といふ、支那式の所が面白い。
憎惡とはいへぬが威嚇の目的で、支那人が蠻人の肉を食した場合が、支那史乘に尠からず見當る。殊に唐宋時代に多い。しばらくその二三の例證を左に附記いたさう。
唐の徳宗時代に、良原の刺史になつた※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]※[#「王+比」、195−17]は、吐蕃人を捕獲して之を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した(唐の李肇の『唐國史補』卷中)。五代の前蜀の王建時代に、四川の軍士は雲南蠻人の入寇するものを擒にして、之を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した(五代の孫光憲の『北夢瑣言』卷五)。尤も甚しいのは、北宋の初期に出た、王彦昇である。『宋史』卷二百五十に次の如き記事を發見する。
[#ここから2字下げ]
西人(西戎)有[#下]犯[#二]漢法[#一]者[#上]。{王}彦昇不[#レ]加[#レ]刑。召[#二]僚屬[#一]飮宴。引[#レ]所[#レ]犯。以[#レ]手※[#「てへん+卒」、196−3][#二]斷其耳[#一]。大嚼巵酒下[#レ]之。其人流血被[#レ]體。股栗不[#二]敢動[#一]。前後啗者數百人。西人畏[#レ]之。不[#二]敢犯[#一][#レ]塞。
[#ここで字下げ終わり]
支那人が臺灣を占領した時代には、近く日清戰役の頃まで、臺灣在住の支那人間に、島中の蕃人の肉を食用する風習が行はれ、蕃人の肉が豚肉同樣に市場に公賣されたことも稀有でなかつたと、千八百九十六年一月發行の『Hongkong Daily Press』に見えて居る(Ball; Things Chinese. pp. 128−129)。
十一
(五)[#「(五)」は縦中横]醫療の目的で人肉を食用する場合。
唐時代から現時に至るまで約千二百年に亙つて、隨分廣く行はれて居る。この人肉を※[#「やまいだれ+祭」、第3水準1−88−56]疾の良劑として紹介したのは、唐の開元時代の明醫、陳藏器の『本草拾遺』にはじますといふ。『新唐書』卷百九十五の孝友傳の序に、
[#ここから2字下げ]
唐時陳藏器著[#二]本草拾遺[#一]。謂。人肉治[#二]羸疾[#一]。自[#レ]是民間以[#二]父母疾[#一]。多※[#「圭+りっとう」、196−12][#二]股肉[#一]而進。
[#ここで字下げ終わり]
と記してある。ほぼ同一の記事が北宋初期の錢易の『南部新書』辛に見えて居るから推すと、『新唐書』は『南部新書』に本づけること疑を容れぬ。歴史を調査しても、唐以前に醫療の目的で人肉を食用した事實は、殆ど見當らぬ。絶無と迄は斷言出來ずとも、先づ絶無に近い。『南史』の孝義傳、『北史』の孝行傳、列女傳を見渡しても股肉を※[#「圭+りっとう」、196−15]つて、その父母舅姑の療病に供したものは、一人も見當らぬ。
所が『新唐書』の孝友傳に、始めて父母の疾病を醫療すべく、自己の肉を割いた孝子三人を載せてある。何れも唐の中世以後のものと認められる。降つて『宋史』の孝義傳、列女傳、『元史』の孝友傳、列女傳、『明史』の孝義傳、列女傳の中には、醫療の目的で人肉を食用した例證が頗る多い。陳藏器の『本草拾遺』から、この風習の俑を作つたといふことも、大體に於て事實を得たものと認めねばならぬ。さればこそ支那一流の刺股行孝といふ風習は、唐以後に限つて、隋以前に見當らぬのである。
陳藏器の『本草拾遺』は原の儘では今日傳らぬが、後世の本草書類に引用されて居るから、その大概を知ることが出來る。支那本草を集成した、明の李時珍の『本草綱目』卷五十二にも、亦『本草拾遺』を引き、羸※[#「やまいだれ+祭」、第3水準1−88−56]の醫藥として人肉を擧げて居る。吾が輩は人肉が醫藥として、しかく有效のものであるや否やを審にせぬが、支那人の記録によると、餘程效能あるやうである。
父母の爲、若くば舅姑の爲め、自己の股肉を割いて供した所謂孝子孝女は、唐宋以後の正史野乘を始め、各地方の通志、府縣志等に疊見して居つて、一々列擧するに堪へぬ。しばらくその一端を示す爲に、四五の事實のみを次に紹介する。
(a)[#「(a)」は縦中横]『宋史』卷四百六十、列女傳、
[#ここから2字下げ]
吉州安福縣朱雲孫妻。劉氏姑病。雲孫※[#「圭+りっとう」、197−14][#二]股肉[#一]作[#レ]糜以進而愈。姑復病。劉亦※[#「圭+りっとう」、197−14][#レ]股以進又愈。尚書謝諤爲賦[#二]孝婦詩[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
(b)[#「(b)」は縦中横]『元史』卷百九十八、孝友傳、
[#ここから2字下げ]
胡伴侶。鈞州密縣人。其父實嘗患[#二]心疾[#一]。數月幾死。更[#二]數醫[#一]倶莫[#二]能療[#一]。伴侶乃齋沐焚[#レ]香。泣告[#二]于天[#一]。以[#二]所[#レ]佩小刀[#一]。於[#二]右脇傍[#一]。※[#「圭+りっとう」、198−1][#二]其皮膚[#一]。割[#二]脂一片[#一]。煎藥以進。父疾遂※[#「廖」の「广」に代えて「やまいだれ」、第4水準2−81−69]。其傷亦旋愈。朝廷旌[#二]表其門[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
(c)[#「(c)」は縦中横]『元史』卷二百、列女傳、
[#ここから2字下げ]
秦氏二女。河南宜陽人。逸[#二]其名[#一]。父嘗有[#二]危疾[#一]。醫云不[#レ]可[#レ]攻。※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、198−3]閉[#レ]戸默祷。鑿[#二]己腦[#一]和[#レ]藥進飮。遂愈。父後復病。欲[#レ]絶。妹※[#「圭+りっとう」、198−4][#二]股肉[#一]置[#二]粥中[#一]。父小啜即甦。
[#ここで字下げ終わり]
(d)[#「(d)」は縦中横]『四川總志』(『欽定圖書集成』閨媛典、第三十四卷、閨孝部列傳三所引)
[#ここから2字下げ]
四川茂州※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]氏文節妻。節赴[#二]秋試[#一]。母李患[#レ]病。醫治莫[#レ]效。※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80]※[#「圭+りっとう」、198−6][#二]左臂肉[#一]。作[#レ]羹奉[#レ]姑。姑食[#レ]之異。越數日復思[#レ]之。子嘉謨跪告[#二]于母※[#「登+おおざと」、第3水準1−92−80][#一]曰。母能食[#レ]姑。孫獨不[#レ]能[#レ]食[#二]祖母[#一]耶。嘉謨亦割以進。李疾漸愈。有司以聞旌表。
[#ここで字下げ終わり]
(e)[#「(e)」は縦中横]『武進縣志』(『欽定圖書集成』閨媛典、第三十四卷、閨孝部列傳三
前へ
次へ
全11ページ中9ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング