フ句を、好使酒嗜と書き誤つたに相違ない。支那人の著録に、往々『輟耕録』の記事をその儘に襲踏せるものを見受けるが、不注意千萬と申さねばならぬ。高※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]とほぼ時を同くして萇從簡がある。彼は後唐、後晉に歴仕して、節度使、上將軍に出世したが、好んで人肉を食した。『五代史記』、卷四十七に、
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{萇}從簡好食[#二]人肉[#一]。所[#レ]至多潛捕[#二]民間小兒[#一]。以食。
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と記してある。萇從簡の家はもと屠羊を世業としたから、顯官となつて後も、かかる野蠻な習癖を有したものと見える。好んで人肉を食した人は、唐代から五代を經て、北宋初期の人に多い。宋初の柳開は歐蘇の先驅者として、文學史上相當名の聞えた人で、已に『宋史』の文苑傳(卷四百四十)にも載せられてあるが、彼も亦この嗜好を有して居つた。南宋初期の蔡絛の『鐵圍山叢談』卷三に、「{柳}開喜生[#二]膾人肝[#一]。且多[#二]不法[#一]。謂尚仍五季亂習」と記してある。
明初の新安王有※[#「火+喜」、第3水準1−87−63]は太祖の第五子なる周定王の子で、太祖の孫に當る皇族であるが、平常人肉を嗜食した。明の沈徳符の『野獲編』卷二十八に、この王に就いて、
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性狼戻。嗜生[#二]食人肝及腦膽[#一]。常以[#二]薄暮[#一]。伺[#レ]有[#二]過[#レ]門者[#一]。輙誘入殺而食[#レ]之。其府第前。日未[#レ]※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]。即斷[#二]行跡[#一]。……※[#「けものへん+契」、189−9]※[#「けものへん+兪」、189−9]梟※[#「けものへん+竟」、189−9]。乃出[#二]帝系[#一]。亦宗藩異事也。
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と述べて居る。金枝玉葉の身で、かかる嗜好を有するとは、眞に咄々《とつとつ》怪事でないか。
Marco Polo(Yule and Cordier; Vol. II, p. 225)に據ると、福建地方の或る住民は、好んで病死にあらざる人間の肉を食ふ。かくて彼等は殺害された人間の肉を搜索しまはる。彼等は人肉の味を素敵(Excellent)として賞美するといふ。既に Yule の注意せし如く、この住民とは福建の山間に棲息する原住種族を、指すものであらう。此等の原住種族は、早く支那人間に、山魅又は野人などと稱せられ、人肉を食すと傳へられて居る(『太平寰宇記』卷一百、福州の條參看)。從つてこの記事は支那人の Cannibalism の資料に利用し難いかと思ふ。
十
(四)[#「(四)」は縦中横]憎惡の極、怨敵の肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふ場合。
支那人はその怨敵に對する時、よく欲[#レ]噬[#二]其肉[#一]とか、食[#レ]之不[#レ]厭とか、將た魚[#二]肉之[#一]とかいふ文字を使用するが、こは決して誇張せる形容でなく、率直なる事實である。彼等は生きたる怨敵の肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふは勿論、死んだ怨敵の肉すら※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふことが稀有でない。生者を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]へば之に苦痛を與へ得るが、死者の場合は、屍を鞭打つと同樣の心理に本づくものと想ふ。春秋戰國時代から、この風習の存在したことは、已に述べて置いたから、茲に繰り返さぬ。
漢室を簒奪した王莽が、後に敗死した時の有樣を『漢書』に、
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軍人分[#二]裂{王}莽身[#一]。支[#二]節肌骨[#一]。臠分。爭相殺者數十人。……傳[#二]莽首[#一]詣[#二]更始[#一]。縣[#二]宛市[#一]。百姓共提[#二]撃之[#一]。或切食[#二]其舌[#一](卷九十九、王莽傳下)。
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と載せてある。梁の賊臣侯景、及びその參謀の王偉が、後に失敗して殺戮された時、市民百姓等は競うてその肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した。前者に就いては『南史』卷八十に、
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及[#二]{侯}景死[#一]。{王}僧辯截[#二]其二手[#一]。送[#二]齊文宣[#一]。傳[#二]首江陵[#一]。果以[#二]鹽五斗[#一]置[#二]腹中[#一]。送[#二]於建康[#一]。暴[#二]之于市[#一]。百姓爭取。屠膾羹食。皆盡。并※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]陽{公}主亦預[#二]食例[#一]。景焚[#レ]骨揚[#レ]灰。曾罹[#二]其禍[#一]者。乃以[#レ]灰和[#レ]酒飮[#レ]之。首至[#二]江陵[#一]。元帝命梟[#二]於市[#一]三日。然後※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]而漆[#レ]之。以付[#二]武庫[#一]。
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と記してある。※[#「さんずい+栗」、第4水準2−79−2]陽公主は梁の武帝の孫女であるが、侯景の婦となつたから、衆怒に觸れて食肉されたものと想ふ。
王偉に就いては、『梁書』卷五十六に、
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及[#下]囚[#二]送江陵[#一]。烹[#中]於市[#上]。百姓有[#下]遭[#二]其毒[#一]者[#上]。竝割炙食[#レ]之。
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と記してある。
隋唐以來も同一の事例が疊見して居る。君上の怒に觸れ、民衆の怨を買つた者の、※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食された場合が稀有でない。隋の煬帝は叛臣斛斯政を烹て、百官にその肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]はしめ(『資治通鑑』隋紀六、大業十年の條)、隋末關西に割據した薛擧の子薛仁杲は、有名なる文人※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]信の子※[#「广+臾」、第3水準1−84−13]立を捕獲して、その降らざるを怒り、之を火上に磔し、その肉を割いて軍人に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]しめた(同上隋紀八、義寧元年の條)。同じく隋末に河北を寇掠した賊首張金※[#「禾+爾」、第4水準2−83−10]が、官軍に捕獲された時の光景は、『資治通鑑』隋紀七、大業十二年の條に、次の如く記載されて居る。
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吏立[#二]木於市[#一]。懸[#二]其頭[#一]。張[#二]手足[#一]。令[#下]仇家割[#中]食之[#上]。未[#レ]死間。歌謳不[#レ]輟。
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唐の則天武后時代の酷吏に來俊臣がある。酷吏の代表として後世にまで聞えて居るが、この來俊臣が後に棄市せられた時、民衆は爭うてその肉を割食した。『資治通鑑』唐紀二十二、神功元年の條に、
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仇家爭※[#「口+敢」、第3水準1−15−19][#二]{來}俊臣之肉[#一]。斯須而盡。抉[#レ]眼剥[#レ]面。披[#レ]腹出[#レ]心。騰※[#「足へん+(日/羽)」、第4水準2−89−44]成[#レ]泥。
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と見えて居る。唐の玄宗の奸相楊國忠が馬嵬で、禁軍の憤怒を買ひ、遂に軍士の爲に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食された(『新唐書』卷二百六、楊國忠傳)。五代の後晉の末年に、契丹の手先となつて大梁に跋扈した張彦澤が後に死に處せられた時、市民は爭うて其腦を破ぶり其髓を取り、其肉を臠して之を食した(『五代史記』卷五十二、張彦澤傳)。張彦澤と略時代を同くして※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]の王延政がある。※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]主王審知の子で、※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]の最後の主君である。彼は建州を根據として居つたが、部下に在つた、福州兵の謀叛の噂を聞き、兵を伏せて福州兵八千人を殺し、その肉を脯として食料に供した(明の黄仲昭の『八※[#「門<虫」、第3水準1−93−49]通志』卷二十七參看)。當時王延政は格別食糧に窮して居らぬから、この擧は全く憎惡から出たものと解釋せなければならぬ。
元の世祖時代に政權を握つた色目人に阿合馬がある。彼は諸方面の反感を買つたが、後にその罪惡が暴露して誅戮された時、かねて彼の專横を惡める人々は爭うてその肉を食した。同時代の鄭所南の『心史』に、
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軍民盡分[#二]臠阿合馬之肉[#一]而食。貧人亦莫[#レ]不[#二]典[#レ]衣歌飮相慶[#一]。燕市酒三日倶空。
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と記して居る。又明の武宗時代の宦者に劉瑾がある。所謂八虎の隨一で、隨分專横に振舞つた。後に罪を發かれて市に磔せられた時、諸人の彼を怨めるもの、一錢を以てその一臠を買ひ、之を生食したといふ(『皇明通紀』卷十)。
要するに支那人の間に、罪人の肉を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ふことは、一種の私刑として公認の姿となつて居る。怨まれたる、若くば惡まれたる罪人は、所定の公罰を受くるのみでなく、同時に民衆又は仇家に噬食されるといふ私刑を受けねばならぬ。此の如くにして Solayman のいふ所(※[#ローマ数字I、1−13−21])の、不忠者は斬罪に處せらるる上に、その肉は食ひ盡されることも、又 〔Abu^ Zayd〕 の傳へる所(※[#ローマ数字III、1−13−23])の姦通、泥棒、殺人等、民衆の怨を買ふべき性質の罪人は、所定の公罰を受けた後ち、更に民衆の爲に食ひ盡されることも、大體に於て事實を得たものである。但 〔Abu^ Zayd〕 の此等の罪人が、一律に死刑に處せられるといふ點は、一考を要すると思ふ。殺人罪を犯す者の死刑に處せられることは、先づ當然として、唐時代に姦通者や泥棒が、概して死刑に處せられるといふことは、必しも事實でない。『唐律』卷二十六(雜律上)に據ると、一般の姦通罪は徒二年である。されど支那人は親屬間に於ける姦通に對しては、中々嚴しい制裁を加へるから、『唐律』にもこの方面の姦通に對しては、
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諸姦[#二]從祖祖母姑。從祖伯叔母姑。從父姉妹。從母。及兄弟妻。兄弟妻。兄弟子妻[#一]者流二千里。強者絞。諸姦[#二]父祖妾。伯叔母。姑。※[#「姉」の正字、「女+※[#第3水準1−85−57]のつくり」、192−14]妹。子孫之婦。兄弟之女[#一]者絞。
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と規定してある。『明律』(卷二十五、犯姦律)の規定は一層嚴重で、『唐律』の流は絞に、絞は斬に改められて居る。男女の別の嚴なる支那では、男女相識の範圍は甚だ狹隘で從つて男女の姦通といふ事件は親屬間に多い。親屬間の姦通は、時に死刑に處せらるることもある。此の如くして姦通者が死刑に處せらるるといふ 〔Abu^ Zayd〕 の所傳も、部分的には正しい。次に 〔Abu^ Zayd〕 の所謂泥棒(voleur)を強盜の意味に解すれば、この所傳も大體に於て正しい。支那の法律では、竊盜は概して死刑に處せぬが、強盜に對しては中々重い。『唐律』卷第十九(賊盜律三)の規定では、
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諸強盜不[#レ]得[#レ]財。徒二年。一尺徒三年。二疋及加[#二]一等[#一]。十疋及傷[#レ]人者絞。殺[#レ]人者斬。其持[#レ]仗者。雖[#レ]不[#レ]得[#レ]財。流三千里。五疋絞。傷[#レ]人者斬。
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となつて居るが、『明律』(卷十八、賊盜律)の強盜に對する處分は、今一段と嚴重で、概して斬罪に行ふ。死罪に當る者を笞打ち殺すとは、所謂杖殺をいふ。唐の中世以後は、謀反、惡逆等の如き重大なる者を除き、比較的輕い死罪者は、杖殺するのが普通であつた(『新唐書』刑法志參看)。アラブ人はこの事實を傳へたものと思はれる。
Marco Polo は元の上都に就いて、
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此等の人民は、私が讀者に告知して置かねばならぬ一種(特別)の風習を有す。若し或る者が死に處せられ、官憲の手にて殺戮された時には、彼等人民はその死體を料理して食用に供する。されど(斬殺にあらざる)自然によ
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