戟n之。語[#二]其下[#一]曰。食[#レ]膽至[#レ]千。則勇無[#レ]敵矣。
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と傳へて居る。
蒙古の太宗が、金を伐ち、その國都※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]京を攻圍した時も、城民は饑餓に苦んだ。『歸潛志』の著者の劉祁は籠城者の一人として、當時の悲慘極まる光景を詳細にその書中に記載してある。
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米{一}升直銀二兩。貧民往々食[#レ]人。殍死者相望。官日載[#二]數車[#一]出[#レ]城。一夕皆※[#「咼+りっとう」、184−6][#二]食其肉[#一]淨盡。縉紳士女。多行[#二]※[#「勹<亡」、184−7]于街[#一]。民間有[#レ]食[#二]其子[#一]。錦衣寶器。不[#レ]能[#レ]易[#二]米升[#一]。人朝出不[#二]敢夕歸[#一]。懼爲[#二]飢者殺而食[#一]。平日親族交舊。以[#二]一飯[#一]相[#二]避于家[#一]。……至[#二]于箱、篋、鞍、※[#「檐」の「木」に代えて「革」、184−8]、諸皮物[#一]。凡可[#レ]食者。皆※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]而食[#レ]之(『歸潛志』卷十一、録大梁事の條)。
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元末天下騷擾の際、張巡の再生と呼ばるる※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82]不華が、淮安を固守すること五年に亙つたが、至正十六年(西暦一三五六)十月に城の陷る頃には、城中糧盡きて盛に人肉を食した。
[#ここから2字下げ]賊{軍}……攻圍{淮安城}。日益急。{官軍}總兵者。屯[#二]下※[#「丕+おおざと」、第3水準1−92−64][#一]。相去五百里。按[#レ]兵不[#レ]出。凡遣[#レ]使十九輩告[#レ]急。皆不[#レ]聽。城中餓者仆[#二]道上[#一]。即取啖[#レ]之。一切草木、螺蛤、魚蛙、燕烏。及※[#「韋+華」、第4水準2−92−16]皮、鞍※[#「檐」の「木」に代えて「革」、184−13]、革箱、敗弓之筋皆盡。而後父子、夫婦、老穉更相食。撒[#レ]屋爲[#レ]薪。人多露處。……城陷。不華猶據[#二]西門[#一]力鬪。中[#レ]傷見[#レ]執。爲[#二]賊所[#一レ]臠(『元史』卷百九十四、※[#「ころもへん+楮のつくり」、第3水準1−91−82]不華傳)。
[#ここで字下げ終わり]
これがその當時の記録である。
その後約三百年を經て、明末の李自成が開封を攻圍した時の慘状は、更に一層甚しい者がある。當時の史料に『守※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]日志』がある。籠城者の一人李光※[#「殿/土」、185−1]の筆録したもので、備さに開封城中の糧食缺乏の有樣を傳へ、その崇禎十五年(西暦一六四二)八月初八日の條に、
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人相食有[#二]誘而殺[#レ]之者[#一]。有[#下]群捉[#二]一人[#一]殺而分食者[#上]。毎[#三]擒[#二]獲一輩[#一]。輒折[#レ]脛擲[#二]城下[#一]。兵民競取食[#レ]之。至[#二]八月終九月初[#一]。父食[#レ]子。夫食[#レ]妻。兄食[#レ]弟。姻親相食。不[#レ]可[#レ]問矣。
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と記して居る。清初に出た大梁(開封)の人周在浚の『大梁守城記』には、同一事を一層詳細に傳へて、
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{崇禎十五年}八月三日。五城巡兵倶割級。獻[#二]周邸[#一]。挾[#二]重賞[#一]。仍賣[#二]民間[#一]爲[#レ]糧。一首率三四金。或云皆良民。四日。中丞勒[#二]富民巨室[#一]追[#二]買糧[#一]。初猶公擧輸勸。已而掲告。已而搜括。望[#二]炊烟[#一]而入。萬竈皆冷。……絶者折[#レ]金。毎石八十金。至[#二]一百二十金[#一]。……毎[#レ]至[#二]一家[#一]。以[#二]大針數百[#一]鑽[#二]稚子膚[#一]。鍛錬之方。極[#二]其哀慘[#一]。匿[#レ]糧者。有司懸[#レ]賞募[#レ]告。……八日。人大相食。初猶食[#二]死人[#一]。死者戒不[#二]敢哭[#一]。至[#レ]是有[#二]誘殺強殺者[#一]。九月初。則父子兄弟更相食。白骨載[#レ]道。初猶熟食。後生食矣。……十六日。命[#二]郷約[#一]報[#二]民間牛驢馬驢[#一]。充[#二]兵餉[#一]。肉一斤。當[#二]兵糧一斤[#一]。五日而盡。……二十日以後。食[#二]牛羊皮襖、靴箱、馬鞍[#一]。……未[#レ]幾人面皆腫。……城之五隅。皆有[#二]鹽坡[#一]。坡上生[#二]蔓草[#一]。民以爲[#レ]美。爭攫之。以[#二]絹布[#一]網[#二]紅蟲[#一]。一斤獲[#二]錢數千[#一]。……糞蛆盈[#レ]器。亦數百錢。盡則食[#二]膠泥馬糞[#一]。有[#二]騎而過者[#一]。※[#「てへん+綴のつくり」、185−13]捨而隨[#レ]之。水蟲馬糞。皆※[#「火+(世/木)」、第3水準1−87−56]而食[#レ]之。……九月初。城中※[#「此/肉」、185−13]骼山積。斷髮滿[#レ]路。天日爲昏。存者十之一二。枯垢如[#レ]鬼。河牆下敲[#二]※[#「てへん+綴のつくり」、185−14]人骨[#一]。吸[#二]其髓[#一]。
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といふ。明末には可なり多數の宣教師が支那に入り來り、その若干は開封にも滯在し居つた。その一人なる Roderic de Figueredo(費樂徳)の如きは、開封陷落の時に城と運命を共にして溺死した(〔Cordier; Histoire ge'ne'rale de la Chine. Tome III, p. 84〕)。從つてこの開封の慘事は、彼らの記録にも傳へられてある。Martin Martini(衞匡國)の所傳は、下の如く大體に於て『守※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]日記』や『大梁守城記』とよく一致して居る。
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六ヶ月間に亙る{賊軍の}攻圍によつて、開封城中の食糧が竭きた。米の一ポンドは同目方の銀と交換せられ、腐敗せる古皮の一ポンドは十クラウンに賣買されるといふ有樣である。死人の肉は豚肉同樣に公然と市場で販賣されて居る。死人の屍を通衢に曝らして、他人の食料に供することは、大なる功徳と認められた。やがて強者の餌食となるべき運命をも知らぬ弱き饑人達は、この屍の肉で露命を維《つな》いだ(Bellum Tartaricum{Semedo; History of China}p. 270)。
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比較的近代の事實としては、阿片戰爭の時(西暦一八四一)廣東でも人肉を食せし事あり(Chinese Repository Vol. X)、同治年間に起つた囘教徒の叛亂中にも往々 Cannibalism が現はれた。同治五六年(西暦一八六六―一八六七)の間に、巴里坤城内在住の漢民は、囘匪に糧道を斷たれた結果、遂に人肉を食用して居る(清の魏光※[#「壽/れんが」、第3水準1−87−65]の『戡定新疆記』卷一)。その約二年前の同治三四年(西暦一八六四―一八六五)の頃に、カシュガル城が重圍の裡に陷つた時、城中の支那人及び之に味方したトルコ人等は、糧食に竭きて人肉を食した。
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最後に彼等は五人又は六人づつ組を作り、蚤取り眼で餌食を搜がし歩く。單獨なる行人に出會ふと、彼等はこの不幸なる犧牲者を物蔭に引き込みて殺害し、その骨立せる躯體に僅に殘れる肉を、各自に分配した(Visits to High Tartary, Yarkand and Kashgar. p. 48)。
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これがその後間もなく千八百六十八年に、カシュガル地方を觀光した英人 Shaw の傳へる報道である。咸豐十一年(西暦一八六一)に、長髮賊徒の一根據地たる安慶が陷る頃には、三年に亙つて官軍の攻圍を受けた城中の住民は、人肉を以て、糧食に當て、人肉一斤は銅錢四十文にて市場に賣買されたといふ(Wilson; The Ever−Victorious Army. p. 79)。
九
(三)[#「(三)」は縦中横]嗜好品として人肉を食用する場合。
こは勿論特別の場合に限る。所が支那では、この特別なるべき場合が、存外頻繁に起るから驚く。已に紹介した齊の桓公が、易牙の子を食したのは、異味を賞翫するといふ理由で、この場合の一例と認めねばならぬ。隋の朱粲や五代の趙思綰も亦人肉愛用者の中に加へねばなるまい。朱粲が當初人肉に口を着けたのは、食糧の缺欠に由るが、彼が人肉を第一の美食と公言せる以上、彼は當然人肉愛用者と認めねばならぬ。趙思綰に就いては五代末(?)の無名氏の『玉堂閑話』(『太平廣記』卷二百六十九所引)に、
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趙思綰……凡食[#二]人肝[#一]六十六。無[#レ]非[#二]面剖而膾[#一レ]之。至[#二]食欲[#一レ]盡。猶宛轉叫呼。而戮者人亦一二萬。嗟乎|儻《モシ》非[#下]名將仗[#二]皇威[#一]而勦[#上レ]之。則孰能翦[#二]滅黔黎之※[#「けものへん+契」、187−10]※[#「けものへん+兪」、187−10][#一]。
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と傳へて居る。隨分驚くべき話ではないか。
唐の張※[#「族/鳥」、第4水準2−94−39]の『朝野僉載』に、薛震が人肉を愛用せし事を記して、
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武后時。杭州臨安尉薛震。好食[#二]人肉[#一]。有[#二]債主及奴[#一]。詣[#二]臨安[#一]。止[#二]於客舍[#一]。飮[#レ]之醉。竝殺[#レ]之。水銀和煎。并[#レ]骨銷盡。後又欲[#レ]食[#二]其婦[#一]。婦知[#レ]之。踰[#レ]墻而遯。以告[#二]縣令[#一]。令詰[#レ]之。具得[#二]其情[#一]。申[#レ]州録[#レ]事奏。奉[#レ]勅杖一百而死。
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といふ。同書に同時代に施州刺史であつた獨孤莊といふ者が、病中に人肉を好み、部下の奴婢の死せる者の肉を求めて食したことを傳へて居る。薛震といひ獨孤莊といひ、泰平無事の日に、相當の官職を帶べる身分で、かかる嗜好を有すとは、誠に不思議と申さねばならぬ。唐の徳宗憲宗時代の重臣に張茂昭がある。本は奚種族であるが、祖父の時代から中國に歸化して居り、彼自身は節度使から中書令に進み、死後太師まで贈られた。唐の盧言の『盧氏雜説』(『賓退録』卷七所引)に、この張茂昭に就いて次の如く傳へて居る。
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張茂昭爲[#二]節鎭[#一]。頻喫[#二]人肉[#一]。及[#下]除[#二]統軍[#一]到[#上レ]京。班中有[#レ]人問曰。尚書在[#レ]鎭。好[#二]人肉[#一]虚實。笑曰。人肉腥而※[#「月+繰のつくり」、第3水準1−90−53]。爭《イカデカ》堪[#レ]喫。
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所謂問ふに落ちずして、語るに落つるものであるまいか。
嗜好品として人肉を食した者の代表として、五代の高※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]を逸することが出來ぬ。元末の陶宗儀の『輟耕録』卷九に、古來食人の事實を列記せる中に、
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三國志云。呉將高※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]。好使[#レ]酒。嗜[#二]殺人[#一]而飮[#二]其血[#一]。日暮必於[#二]宅前後[#一]。掠[#二]行人[#一]而食[#レ]之。
[#ここで字下げ終わり]
とある。併し『三國志』には一切かかる記事が載せてない。北宋の路振の『九國志』(『粤雅堂叢書』本)卷二に、高※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]を傳して、
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{高}※[#「さんずい+豊」、第3水準1−87−20]嗜[#レ]酒好[#レ]侠。殺人而飮[#二]其血[#一]。日暮必於[#二]宅前後[#一]。掠[#二]行人[#一]而食[#レ]之。
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とある。疎忽な陶宗儀は、『九國志』を『三國志』と間違へ、嗜酒好侠
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