盾モ奄ty N.S. XII に Droughts in China from A.D. 620 to 1643 と題する論文を公にした。この論文は『欽定古今圖書集成』の庶徴典の旱災部の記事を資料としたもので、必しも完全なものとはいへぬが、しばらく之に據ると、この一千二十三年間に於ける五百八十三年は、旱災に罹つたといふ。水害も中々多い。この水旱の爲に飢饉の頻發するのも、亦已むを得ざる次第といはねばならぬ。一旦飢饉となると、交通の不便な支那では、穀物の價が想像以上に暴騰する。古代の支那に於ける米の價は一斗四十錢乃至五十錢を普通とし、最も賤き時は斗米一錢以下のこともあるが(『漢書』食貨志上)、最も貴き時は、斗米七八十萬錢にも達した(『通鑑』梁紀十七、太清二年の條)。平常より大約二萬倍の暴騰に當る。此の如き場合に貧民は到底生命を維持することが出來ぬ。
 支那には古く常平倉義倉等、備荒の用意が出來て居つて、已に Solayman もこの設備の良好なることを紹介して居る(Reinaud; Relation des Voyages. Tome I, p. 39)。されどこの設備も概していへば、名あつて實なきものが多い。現に唐時代の實際を觀ても、太宗時代に設置した義倉及び常平倉は、高宗時代より次第に壞れ、玄宗時代に一旦復興したけれども、久しからずして廢して居る(『新唐書』食貨志二)。故にこの方面より來る救濟の實效も表面程多くない。歴代の支那政府は、水旱毎に救恤を怠らぬが、中間に介在する官吏の私利によつて、上惠が多く下達せぬ。西漢の汲黯が專斷を以て、河内の倉粟を發して饑民を救濟した如き(『漢書』卷五十、汲黯傳)、明の王※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]が獨斷を以て、廣運倉を開いて饑民を全活した如き(『明史』卷百七十七、王※[#「立+(宏−宀)」、第4水準2−83−25]傳)、又『元史』に張養浩が私錢を出して饑民を賑恤したことを記して、
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天暦二年(西暦一三二九)關中大旱。饑民相食。特拜[#二]陝西行臺中丞[#一]。……登[#レ]車就[#レ]道。遇[#二]餓者[#一]則賑[#レ]之。死者則葬[#レ]之。……時斗米直十三緡。……聞[#下]民間有[#中]殺[#レ]子以奉[#レ]母者[#上]。爲[#レ]之大慟。出[#二]私錢[#一]以濟[#レ]之(卷百七十五、張養浩傳)。
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といへるが如き、奇特な官吏もあるが、こは寧ろ寥々たるもので、その大多數は之を機會に中飽の慾を恣にするに過ぎぬ。後漢の獻帝の興平元年(西暦一九四)に、大饑饉が起つた時、獻帝は太倉の米豆を出して饑民を救助せしめたに拘らず、京師に餓※[#「くさかんむり/孚」、第3水準1−90−90]が續出した。之に疑惑を挾んだ獻帝は、その面前にて救恤の米豆を檢覈せしめて、關係官吏の不正を發覺し、その不正官吏を處罰してから、救助の實績が擧つたといふ(『後漢書』卷九、獻帝本紀)。之と類似の實例は、歴代の記録に疊見して居つて、一々列擧するに堪へぬ。兔に角朝廷の賑恤も、十分に下民に徹底せぬ場合が多い。
 以上の如き事情の下に、支那では大饑饉の時に、他國人の到底想像し得ざる程多數の餓死者を出す。比較的信憑すべき報道に據ると、道光二十九年(西暦一八四九)の凶荒には、一千三百七十五萬人が餓死し、光緒三四年(西暦一八七七―一八七八)の饑饉には、九百五十萬人が餓死したと傳へられて居る(Rockhill; Inquiry into the Population of China.{Smithsonian Miscellaneous Collections, Vol. 47, Part 3}pp. 313, 316)。されば大饑饉の時に、支那人の間に人相食といふ事件の現出するのは、當然と申さねばならぬ。最近民國九年(西暦一九二〇)に於ける北支那の饑饉には、諸外國からの救助も相當に行き渡つたから、人肉食用の蠻行は起らなかつた樣であるが、光緒四年の饑饉には、この蠻行が實現して居る(Williams; Middle Kingdom. Vol. II, p. 736)。
 上に紹介して置いた Hosie の論文に、唐初から明末に至る、約一千年間に於ける饑饉に伴つて起つた Cannibalism の事蹟をも注意してあるが、擧一漏九底のもので決して完全でない。支那でやや大なる饑饉があれば、Cannibalism が殆ど必然的に現出する。歴代正史の食貨志や、五行志に見える實例だけでも驚くべき程多い。正史以外の野乘隨筆等に散見する事例も、中々尠くない。饑饉に伴つて起る Cannibalism は、支那では餘りに普通で、態※[#二の字点、1−2−22]列擧する必要を見ぬ。多數の實例の中より、二三の場合だけを左に掲げる。
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建炎三年(西暦一一二九)山東郡國大饑。人相食。時金人陷[#二]京東諸郡[#一]。民聚爲[#レ]盜。至[#下]車載[#二]乾尸[#一]爲[#上レ]糧(『宋史』卷六十七、五行志五)。
嘉定二年(西暦一二〇九)春。兩淮、荊襄、建康府大饑。斗米錢數千。人食[#二]草木[#一]。淮民※[#「圭+りっとう」、181−10][#二]道※[#「歹+菫」、181−10][#一]。食盡。發[#二]※[#「やまいだれ+(夾/土)」、第3水準1−88−54]※[#「此/肉」、181−10][#一]。繼[#レ]之。人相※[#「てへん+益」、181−11]噬(同上)。
嘉煕四年(西暦一二四〇)正月。臨安大饑。饑者奪[#二]食于路[#一]。市中殺[#レ]人以賣。盜于[#二]隱處[#一]掠[#二]賣人[#一]以徼[#レ]利。日未[#レ]※[#「日+甫」、第3水準1−85−29]。路無[#二]行人[#一](『御批通鑑輯覽』卷九十二)。
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 清の紀※[#「韵−立」、第3水準1−85−12]の『閲微草堂筆記五種』所收の『如是我聞』卷二に、明末饑饉の際に起つた、人肉發賣に關する左の悲慘事を載せてある。
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明季河北五省皆大飢。至[#二]屠[#レ]人鬻[#一レ]肉。官弗[#レ]能[#レ]禁。有[#レ]客在[#二]徳州景州間[#一]。入[#二]逆旅[#一]午餐。見[#下]有[#二]少婦[#一]。裸體伏[#二]俎上[#一]。※[#「糸+朋」、181−17][#二]其手足[#一]。方汲[#レ]水洗滌[#上]。恐怖戰悚之状。不[#レ]可[#二]忍視[#一]。客心憫惻。倍[#レ]價贖[#レ]之。釋[#二]其縛[#一]助[#レ]之。著[#レ]衣手觸[#二]其乳[#一]。少婦※[#「弗+色」、第3水準1−90−60]然曰。荷[#二]君再生[#一]。終身賤役無[#レ]所[#レ]悔。然爲[#二]婢媼[#一]則可。爲[#二]妾※[#「縢」の「糸」に代えて「女」、第4水準2−5−71][#一]則必不可。吾惟不[#三]肯事[#二]二夫[#一]。故鬻[#二]諸此[#一]也。君何遽相輕薄耶。解[#レ]衣擲[#レ]地。仍裸體伏[#二]俎上[#一]。瞑目受[#レ]屠。屠者恨[#レ]之。生[#二]割其股肉一臠[#一]。哀號而已。終無[#二]悔意[#一]。惜亦不[#レ]得[#二]其姓名[#一]。
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 この記事は、支那人の Cannibalism に關する一材料たるのみならず、同時に支那婦人の貞操觀を知るべき屈竟の一資料と思ふ。昔楚が呉の爲に大敗して、楚の昭王は妹の季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−5]――十四五歳位の少女――を伴ひて逃亡した時、か弱き季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−6]は、從者鍾建といふ者に負はれて、難を避けた。難平いで後、季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−6]の結婚問題が起るや、季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−6]は鍾建に負れて、既に彼此接觸したから、鍾建の外に男子には嫁し難しと主張して、遂に鍾建に降嫁したことがある(『左傳』定公五年條、『資治通鑑』後周紀二參觀)。この季※[#「くさかんむり/干」、読みは「び」、182−8]と、かの失名の少婦との間に、その婦徳自から相通ずる所あると思ふ。

         八

 (二)[#「(二)」は縦中横]籠城して糧食盡きた時に、人肉を食用する場合。
 食人肉の風習を有する支那人は、若し彼等が重圍の中に陷つて、糧食盡くる際には、人肉を以てその不足を補充するのが、古來殆ど一種の慣例となつて居る。さきに引用した『左傳』の宣公十五年の條に、楚が宋を圍んだ時の記事に、「易[#レ]子而食」とあるを始め、同樣若くば、類似の記事が歴代の史料に疊見して居るが、しばらくその中の三四を左に紹介する。
 後漢の末に一代の義士臧洪が、袁紹の爲に雍丘に圍まれて食竭きた時、彼はその愛妾を殺して部下の將卒の食に充てた(『後漢書』卷八十八、臧洪傳)。梁の武帝が反臣侯景の爲に建康の臺城に圍まれた時、官軍糧食に乏しく、馬肉に人肉を雜へて飢を凌いた(『南史』卷八十、侯景傳)。唐の安禄山の賊軍が有名な張巡、許遠を※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]陽に圍んだ時、城中食竭くると、張巡はその愛妾を殺し、許遠はその奴僕を殺して士卒に饗した。『舊唐書』卷百八十七下、張巡傳に、當時の状況を次の如く描いてある。
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攻圍既久(※[#「目+隹」、第3水準1−88−87]陽)城中粮盡。易[#レ]子而食。折[#レ]骸而爨。人心危恐。慮[#二]將有[#一レ]變。{張}巡乃出[#二]其妾[#一]。對[#二]三軍[#一]殺[#レ]之。以饗[#二]軍士[#一]曰。諸公爲[#二]國家[#一]。戮[#レ]力守[#レ]城。一[#レ]心無[#レ]二。經[#レ]年乏[#レ]食。忠義不[#レ]衰。巡不[#レ]能[#下]自割[#二]肌膚[#一]。以啖[#中]將士[#上]。豈可[#下]惜[#二]此婦人[#一]。坐視[#中]危迫[#上]。將士皆泣下。不[#レ]忍[#レ]食。巡強令[#レ]食[#レ]之。{許遠初殺[#二]奴僮[#一]。以哺[#レ]卒}。乃括[#二]城中婦人[#一]。既盡。以[#二]男夫老小[#一]繼[#レ]之。所[#レ]食人口二三萬。人心終不[#二]離變[#一]。
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 精忠義烈な張巡の後に、かかる悲慘な陰翳が伴うて居る。心ある支那人の中には、早く當時から張巡の不慈を非難した者も絶無ではないが(李肇の『唐國史補』卷上の李翰論張巡の條參看)、一般の支那人は、かかる所行を格別不人情とは認めぬやうである。
 唐末から五代にかけて、城守の際に、人肉食用の蠻行が頻發したことは、さきに紹介した『資治通鑑』の(5)[#「(5)」は縦中横](7)[#「(7)」は縦中横](11)[#「(11)」は縦中横](12)[#「(12)」は縦中横](13)[#「(13)」は縦中横](14)[#「(14)」は縦中横](16)[#「(16)」は縦中横]等の記事に據つて疑ふ餘地がない。五代の趙思綰は、食人鬼として著聞して居るが、彼が長安で後漢の攻圍を受けた時の光景を、『資治通鑑』には、
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趙思綰好食[#二]人肝[#一]。嘗面剖而膾[#レ]之。膾盡人猶未[#レ]死。又好以[#レ]酒呑[#二]人膽[#一]。謂[#レ]人曰。呑[#レ]此千枚。則膽無[#レ]敵矣。及[#二]長安城中食盡[#一]。取[#二]婦女幼稚[#一]爲[#二]軍糧[#一]。日計[#レ]數而給[#レ]之。毎[#レ]犒[#レ]軍。輙屠[#二]數百人[#一]。如[#二]羊豕法[#一](後漢紀三、乾祐二年の條)。
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と記し、『五代史記』卷五十三の趙思綰傳には、
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{長安}城中食盡。{趙思綰}殺[#レ]人而食。毎[#二]犒宴[#一]。殺[#二]人數百[#一]。庖宰一如[#二]羊豕[#一]。思綰取[#二]其膽[#一]。以[#レ]酒呑[#
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