、169−17]亦竭。以[#二]犬※[#「彑/(比<矢)」、第3水準1−84−28][#一]供[#二]御膳[#一]。上鬻[#二]御衣及小皇子衣於市[#一]。以充[#レ]用。」
(13)[#「(13)」は縦中横]昭宜帝天祐三年(九〇六)九月 「※[#「さんずい+卞」、第3水準1−86−52]軍築[#レ]壘圍[#二]滄州[#一]。……城中食盡。丸[#レ]土而食。或互相掠啖。」
(14)[#「(14)」は縦中横]後梁太祖開平三年(九〇九)十二月 「劉守光圍[#二]滄州[#一]。……城中食盡。民食[#二]菫泥[#一]。軍士食[#レ]人。……呂※[#「亠/兌」、第3水準1−14−50]選[#二]男女羸弱者[#一]。飼以[#二]麹麪[#一]而烹[#レ]之。以給[#二]軍食[#一]。謂[#二]之宰殺務[#一]。」
(15)[#「(15)」は縦中横]太祖乾化元年(九一一)八月 「{劉}守光怒[#二]{孫鶴之諫[#一レ]己}。伏[#二]諸質上[#一]。令[#二]軍士※[#「咼−口」、170−3]而※[#「口+敢」、第3水準1−15−19][#一レ]之。」
(16)[#「(16)」は縦中横]末帝貞明二年(九一六)九月 「晉人圍[#二]貝州[#一]踰[#レ]年。……城中食盡。※[#「口+敢」、第3水準1−15−19][#レ]人爲[#レ]糧。」
(17)[#「(17)」は縦中横]末帝龍徳二年(九二二)九月 「鎭州食竭力盡。……{晉軍入[#レ]城}執[#二]{張}處瑾兄弟家人。及其黨高濛、李※[#「(睹−目)/(翕−合)」、第4水準2−84−93]、齊儉[#一]。送[#二]行臺[#一]。趙人皆請而食[#レ]之。」
[#ここで字下げ終わり]

 上の(2)[#「(2)」は縦中横]に紹介した黄巣の賊徒の狼藉は、『舊唐書』卷二百下の黄巣傳に、今少しく詳細に、
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關東仍歳無[#二]耕稼[#一]。人餓倚[#二]牆壁間[#一]。賊俘[#レ]人而食。日殺[#二]數千[#一]。賊有[#二]舂磨砦[#一]。爲[#二]巨碓數百[#一]。生納[#二]人於臼[#一]碎[#レ]之。合[#レ]骨而食。
[#ここで字下げ終わり]
と記してある。數千幾萬の無辜の良民を、生きながら碓にて舂き、磑にて磨して食用に供するとは、誠に前代未聞の慘事と申さねばならぬ。殊に又賊軍討伐の任に當れる官軍が、却つて良民を執へ、之を金に換へて賊軍の糧食に資するが如きは、支那以外の他國では、到底見當らぬ咄々《とつとつ》怪事と思ふ。
 唐の中世以後揚州は支那第一の大都會であつた。當時揚一といふ諺があつて、富庶繁華を以て天下に冠絶して居つた。所が唐末紛擾の際に、殊に當時の軍界の元勳たる淮西節度使の高駢が失勢して以來、揚州は群雄爭奪の區となり、多年修羅の巷となつた。『舊唐書』にその光景を傳へて、次の如く記してある。
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廣陵(揚州)大鎭。富甲[#二]天下[#一]。自[#二]{畢}師鐸、秦彦之後[#一]。孫儒{楊}行密。繼踵相攻。四五年間。連[#レ]兵不[#レ]息。廬舍焚蕩。民戸喪亡。廣陵之雄富掃[#レ]地矣(卷百八十二、秦彦傳)。
[#ここで字下げ終わり]
 この間揚州の住民は、文字通りに塗炭の苦を受け、魚肉の厄に罹つた。『五代史記』に上の(5)[#「(5)」は縦中横]に紹介した同一事實を記して、
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是時城中倉庫空虚。飢民相殺而食。其夫婦父子。自相牽。就[#レ]屠賣[#レ]之。屠者※[#「圭+りっとう」、171−3]剔如[#二]羊豕[#一](卷六十一上、呉世家)。
[#ここで字下げ終わり]
と傳へて居る。酸鼻至極の記事ではないか。
 揚州は唐代の外國貿易港の一で、多數のマホメット教徒が茲に滯在して居つた(大正八年十月の『史學雜誌』に掲げた拙稿「イブン・コルダードベーに見えたる支那の貿易港」六二―六四頁[#ここに「本全集第三卷所收」と注記])。黄巣の反亂は廣く且つ詳に、マホメット教徒の間に知られて居つた(Reinaud; Relation des Voyages. Tome I, pp. 63−68. 〔Mac,oudi〕; Les Prairies d'Or. Tome II, pp. 302−306)。されば黄巣の行つた虐殺、揚州に於ける慘事も、亦彼等の耳目に觸れた筈である。〔Abu^ Zayd〕 の傳へる(※[#ローマ数字II、1−13−22])の記事は、當時のマホメット教徒の見聞に本づけるもので、大體に於て事實と認めねばならぬ。唐末四方に獨立割據した節度使達が、勝手氣儘に弱肉強食の爭を釀したのも事實であれば、その爭奪の犧牲となつた土地の荒廢し、住民の難澁したのも事實である。上に『資治通鑑』に據つて紹介した記事の中には、籠城久しきに亙つて、味方同志※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した事實も多いが、又敵陣を陷れ敵地を略して、その兵民を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した事實も尠くない。(2)[#「(2)」は縦中横]の黄巣、(3)[#「(3)」は縦中横]の宣州軍、(6)[#「(6)」は縦中横]の李罕之、(9)[#「(9)」は縦中横]の孫儒、(10)[#「(10)」は縦中横]の李克用の場合のごときは、大體に於て後者に屬すべきもので、〔Abu^ Zayd〕 の記事の正確なることを保證すべき實例である。敵國を侵略若くば併合する際に、敵の捕虜を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食するといふ蠻習は、この以後でも時々支那で實行された。北宋の初期の乾徳元年(西暦九六三)に、宋軍が湖南征伐を行うた際、宋の兵馬都監李處耘の部下は敵の捕虜を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した。『宋史』にこの事實を、
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{宋軍}至[#二]敖山砦[#一]。賊棄[#レ]砦走。俘獲甚衆。{李}處耘釋[#二]所[#レ]俘體肥者數十人[#一]。令[#三]左右分[#二]啗之[#一]。黥[#二]其少健者[#一]。令[#三]先入[#二]朗州[#一]。……黥者先入[#レ]城。言[#三]被[#レ]擒者悉爲[#二]大軍所[#一レ]啗。朗人大懼。縱[#レ]火焚[#レ]城而潰(卷二百五十七、李處耘傳)。
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と記してある。この李處耘は實に宋の太宗の皇后、即ち明徳皇后の實父に當るから驚く。
 李處耘と關聯して憶ひ出されるのは、同時代の王繼勳である。彼は宋の太祖の皇后即ち孝明皇后の近親であるが、性疎暴で屡※[#二の字点、1−2−22]その使役せる子女を殺し食したといふ。この人に關しては、南宋の趙與時の『賓退録』卷七に下の如く傳へてある。
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本朝王繼勳。孝明皇后母弟。太祖時屡以[#レ]罪貶。後以[#二]右監門衞率府副率[#一]。分[#二]司西京[#一]。殘暴愈甚。強市[#二]民間子女[#一]。以備[#二]給使[#一]。小不[#レ]如[#レ]意。即殺而食[#レ]之。以[#二]※[#「木+彗」、172−8]※[#「木+賣」、第4水準2−15−72][#一]貯[#二]其骨[#一]。棄[#二]之野外[#一]。女僧及鬻[#レ]棺者。出[#二]入其門[#一]不[#レ]絶。太宗即位。會有[#二]訴者[#一]。斬[#二]于洛陽市[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
 但 〔Abu^ Zayd〕 が支那人の法律は人肉を食することを認可すといへる一節は、多少の説明を要する。既に孟子も「獸相食。且人惡[#レ]之」(梁惠王上)と申して居る位で、支那人とて人肉の相食むのを尋常の出來事として看過する筈がない。現に唐の張巡が忠義の爲とはいへ、人肉を食したことに對してすら、一部の非難があつた(『新唐書』卷百九十二、張巡傳)。支那人の法律が主義として人肉食用を公認する筈がない。されど 〔Abu^ Zayd〕 の時代、即ち唐末から五代の初期にかけて、支那國内の秩序亂れ綱紀壞ぶれ、所在の市場で人肉の公賣されたことは、疑なき事實である。『五代史記』も『資治通鑑』も、揚州の市場で公然人肉の販賣された事實を明記してある。即ち事實としては、當時の支那官憲は、人肉の食用と販賣に對して、何等の禁制を加へなかつた。此の如くして 〔Abu^ Zayd〕 傳ふる所のこの一節も、亦大體に於て事實と認めねばならぬ。

         五

 唐末五代以後も、支那人の Cannibalism は依然行はれた、この一千年間に於ける正史野乘を遍ねく探つたならば、Cannibalism の例證は恐らくは山にも比し得る程と思ふ。吾が輩はかかる例證を一々探討する餘暇もなく、又かかる例證を一々羅列する必要をも感ぜぬ。ただこの期間に起つた尤も酷烈なる Cannibalism の記事二三を茲に掲げて、全貌窺測の資料に供したい。
 北宋末から南宋の初期にかけて、女眞人の入寇により、支那を擧げて紛擾の裡に陷つた。この際例によつて所在に人肉食用が流行した。就中南宋の莊綽の『※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]肋編』(『説郛』※[#「疆」のへんの「土」にかえて「一」、173−7]二十七所收)に記する所、尤も酸鼻を極めて居る。
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自[#二]靖康丙午歳(西暦一一二六)。金狄亂[#一レ]華。六七年間。山東、京西、淮南等路。荊榛千里。米斗至[#二]數十千[#一]。且不[#レ]可[#レ]得。盜賊官兵以至[#二]民居(居民?)[#一]更相食。人肉之價賤[#二]于犬豕[#一]。壯者一枚。不[#レ]過[#二]十五斤[#一]。躯暴以爲[#レ]※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]。登州范温率[#二]忠義之人[#一]。紹興癸丑歳(西暦一一三三)。汎[#レ]海到[#二]錢塘[#一]。有[#下]至[#二]行在(杭州)[#一]猶食者[#上]。老嫂(痩?)男子婦女。更謂[#二]之饒把火[#一]。婦人少艾者。名[#二]之下羹羊[#一]。小兒呼爲[#二]和骨爛[#一]。又通目爲[#二]兩脚羊[#一]。唐止《タダ》朱粲一賊。今百[#二]倍于前數[#一]。殺戮、焚溺、飢餓、疾疫、陷墮。其死已衆。又加[#レ]之以[#二]相食[#一]。……不[#レ]意以[#二]老眼[#一]。親見[#二]此時[#一]。嗚呼痛哉。
[#ここで字下げ終わり]
 この兩脚羊とは兩脚を有する羊の意味で、人間を羊同樣に食用するから起つた名稱である。和骨爛とは骨と肉を併せて火食する、下羮羊は『輟耕録』卷九に引けるものは不美羹となつて居る。これは羹の料に供するより起つた名稱で、饒把火とは肉硬くして燃料を多く要するより起つた名稱かと想ふ。
 元朝の末期に出た陶宗儀の『輟耕録』卷九にも、その當時の事實として、『※[#「奚+隹」、第3水準1−93−66]肋編』に劣らざる、否遙にそれ以上と認むべき悲慘な記事を傳へて居る。
[#ここから2字下げ]
天下兵甲方殷。而淮右之軍。嗜食[#レ]人。以[#二]小兒[#一]爲[#レ]上。婦女次[#レ]之。男子又次[#レ]之。或使[#レ]坐[#二]兩缸間[#一]。外逼以[#レ]火。或於[#二]鐵架上[#一]生炙。或縛[#二]其手足[#一]。先用[#二]沸湯[#一]澆溌。却以[#二]竹帚[#一]刷[#二]去苦皮[#一]。或乘[#二]夾袋中[#一]。入[#二]巨鍋[#一]。活※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]。或※[#「圭+りっとう」、174−5][#二]作事件[#一](?)而淹[#レ]之。或男子則止斷[#二]其雙腿[#一]。婦女則特※[#「宛+りっとう」、第4水準2−3−26][#二]其兩乳[#一]酷毒萬状。不[#レ]可[#二]具言[#一]。
[#ここで字下げ終わり]
 活人をその儘火炙にするとか、袋に入れ鍋で※[#「赭のつくり/火」、第3水準1−87−52]るとか、その手足を縛し熱湯をかけて皮膚を爛らし、竹帚にてその皮膚を洗刷する等、千歳の下猶ほ聞く者をして毛髮竦然たらしむるではないか。此の記事の如きは、單に支那人の食人肉の一材料のみでなく、又支那人の殘忍性を證明するべき一
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