嚇した。高祖は之に對して「幸分[#二]我一※[#「木+否」、第4水準2−14−71]羮[#一]」と對へて居る。高祖は又彭越を誅戮し、その肉を醢にして、※[#「彳+扁」、第3水準1−84−34]く諸侯に賜うた(『史記』卷九十一、黥布傳)。この應對、この處分は、何れも食人肉の風習と關係あるものであるまいか。
 支那には古來飢饉が多い。飢饉の場合には一般に人肉食用が行はれる。試に『前漢書』『後漢書』に據つて、兩漢時代に於ける實例を示すと下の如くである。

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年代 「記事」(出典)
{高祖二年(西暦前二〇五)?} 「漢興接[#二]秦之敝[#一]。諸侯竝起。民失[#二]作業[#一]。而大飢饉。凡米石五千。人相食。死者過半。高祖乃令[#丁]民得[#丙]賣[#レ]子。就[#乙]食蜀漢[#甲]。」(『前漢書』食貨志)
高祖二年(前二〇五)六月 「{關中大飢。米斛萬錢。人相食。令[#下]民就[#中]食蜀漢[#上]。}」(『前漢書』高祖本紀)
武帝建元三年(前一三八)春 「河水溢[#二]于平原[#一]。大飢。人相食。」(『前漢書』武帝本紀)
武帝{建元六年(前一三五)?} 「河南貧人傷[#二]水旱[#一]。萬餘家。或父子相食。」({『資治通鑑』建元六年條})
武帝{鼎元三年(前一一四)四月} 「關東郡國十餘飢。人相食。」(『前漢書』武帝本紀)
元帝初元元年(前四八)九月 「關東郡國十一。大水。飢。或人相食。轉[#二]旁郡錢穀[#一]。以相救。」(『前漢書』元帝本紀)
元帝初元二年(前四七)六月 「齊地飢。穀石三百(?)餘。民多餓死。琅邪郡人相食。」(『前漢書』食貨志)
成帝永始二年(前一五) 「梁國平原郡。比年傷[#二]水災[#一]。人相食。」(同右)
王莽天鳳元年(一四) 「縁邊大饑。人相食。」(『前漢書』王莽傳)
王莽地皇三年(二二)二月 「關東人相食。」(同右)
{王莽時} 「{北邊及青徐地。人相食。※[#「各+隹」、第3水準1−93−65]陽以東米石二千。}」(『前漢書』食貨志)
{光武帝建武元年(二五)?} 「民饑餓相食。死者數十萬。長安爲[#レ]虚。城中無[#二]人行[#一]。」(『前漢書』王莽傳)
光武帝建武二年(二六) 「三輔大饑。人相食。城郭皆空。白骨蔽[#レ]野。」({『資治通鑑』建武二年條})
安帝永初二年(一〇八)正月 「時州郡大饑。米石二千。人相食。老弱相[#二]棄道路[#一]。」(『後漢書』安帝本紀註)
同三年(一〇九)三月 「京師大饑。民相食。……詔曰。朕……至[#レ]令[#下]百姓饑荒。更相※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食[#上]。永懷[#二]悼歎[#一]。」(『後漢書』安帝本紀)
同三年(一〇九)十二月 「并涼二州大饑。人相食。」(同右)
桓帝元嘉元年(一五一)四月 「任城梁國饑。民相食。」(『後漢書』桓帝本紀)
桓帝永壽元年(一五五)二月 「司隷冀州饑。人相食。」(同右)
靈帝建寧三年(一七〇)正月 「河内人婦食[#レ]夫。河南人夫食[#レ]婦。」(『後漢書』靈帝本紀)
獻帝興平元年(一九四) 「是歳穀一斛五十萬。豆麥一斛二十萬。人相食啖。白骨委積。」(『後漢書』獻帝本紀)
獻帝建安二年(一九七) 「是歳饑。江淮間民相食。」(同右)
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 就中王莽の末年天下騷擾の際に、Cannibalism が尤も廣い範圍に行はれた。『後漢書』卷六十九あたりの列傳を一瞥しても、容易に當時の光景を想像することが出來る。三國兩晉以來隋唐時代にかけても、支那人の Cannibalism の證據は澤山見える。一々の歴擧は餘りに煩雜なるを恐れて見合せ、その泰甚なる實例四五だけを紹介したい。東晉の末に孫恩といふ海賊があつて、東南沿海地方を暴掠し※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つた。彼は各地方の縣令を擒にすると、その肉を醢にして縣令の妻子に食はしめ、躊躇する者は支解した――「醢[#二]諸縣令[#一]。以食[#二]其妻子[#一]。不[#二]肯食[#一]者。輙支[#二]解之[#一]。」(『資治通鑑』晉紀三十、隆安三年の條)――といふ。慘酷至極の話ではないか。
 君に反き上に逆ふ不忠の輩は、之を殺戮してその肉を食ひ、若くは官民をしてその肉を食はしむることは、支那の古代から實行されて居つて、決して珍らしい事實でない。隋の煬帝が叛臣の斛斯政を捕へて之を誅戮し、その肉を烹て、百官をして之を食せしめた。百官の或る者は、成るべく多量にその肉を飽食して、煬帝の歡心を買つたといふ(『資治通鑑』隋紀六、大業十年の條)。やや事情を異にするが、宋の文帝を弑して、一時帝位を簒つた劉劭の羽翼となつた張超之は、やがて失敗すると、將校士卒の爲に殺害せられ、且つ彼等の餌食となつた。
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{張超之}……爲[#二]亂兵所[#一レ]殺。割[#レ]腸胯[#レ]心。臠[#二]剖其肉[#一]。諸將生[#二]※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]之[#一]。焚[#二]其頭骨[#一](『宋書』卷九十九、二凶傳)。
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これが當時の記載である。
 『資治通鑑』貞觀十七年(西暦六四三)の條に、太宗がその猛將丘行恭が逆臣の心肝を食したことを責めて、
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※[#「(樗−木)+おおざと」、166−15]尉游文芝。告[#二]代州都督劉蘭成謀反[#一]。……蘭成坐[#二]腰斬[#一]。右武侯將軍丘行恭。探[#二]蘭成心肝[#一]食[#レ]之。上聞而讓[#レ]之曰。蘭成謀反。國有[#二]常刑[#一]。何至[#レ]如[#レ]此。若以爲[#二]忠孝[#一]。則太子諸王。先食[#レ]之矣。豈至[#レ]卿邪。行恭慙而拜謝。
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とある。太宗の見識は流石であるが、唐一代を見渡すと、依然としてこの野蠻な私刑(?)が、實行され又は默許された。玄宗時代の宦官揚思※[#「瑁のつくり+力」、第3水準1−14−70]が、賊臣に内通した官吏を處分した時の状況が、『舊唐書』に「探[#二]取其心[#一]。截[#二]去手足[#一]。割[#レ]肉而啖[#レ]之」(卷百八十四、宦官傳)と記されてある。徳宗時代の大將李懷光は、その養子の石演芬が、己に反對するのを怒つて、その左右に命じて之を臠食せしめんとした(『資治通鑑』唐紀四十六、興元元年の條、『舊唐書』卷百八十七、下、忠義傳)。されば Solayman の傳ふる所(※[#ローマ数字I、1−13−21])は悉く事實と認めねばならぬ。隋唐時代の支那人は反逆者を殺して、その肉を食したことも事實であれば、彼等は病死の者を除き、杖殺された又は斬殺された者の肉を、平氣で食用したことも事實である。
 支那人の Cannibalism の實例を擧ぐる場合に、決して隋末唐初に出た朱粲のことを逸してはならぬ。彼は劇賊の首領で、二十萬の部下を率ゐて中原を横行し、到る所で居人を掠奪殺戮して粮食に充てた。『舊唐書』にこの事實を次の如く記述してある。
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{朱粲}軍中※[#「(聲−耳)/缶」、第4水準2−84−70]竭。無[#レ]所[#二]虜掠[#一]。乃取[#二]嬰兒[#一]蒸而※[#「口+敢」、第3水準1−15−19][#レ]之。因令[#二]軍士[#一]曰。食之美者。寧過[#二]於人肉[#一]乎。但令[#二]他國有[#一レ]人。我何所[#レ]慮。即勒[#二]所部[#一]。有[#二]略得婦人小兒[#一]。皆烹[#レ]之分給[#二]軍士[#一]。乃税[#二]諸城堡[#一]。取[#二]小弱男女[#一]。以益[#二]兵粮[#一](卷五十六、朱粲傳)。
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 有名なる顏之推の子の顏愍楚は、朱粲の軍に囚はれてその幕僚となつたが、後に軍中食に乏しくなると、彼の一家を擧げて朱粲に※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]ひ盡されたといふ。彼は人から人肉の滋味を聞かれた時、「若※[#「口+敢」、第3水準1−15−19][#二]嗜[#レ]酒之人[#一]。正似[#二]糟藏猪肉[#一]」と答へて居る。誠に驚くべき食人鬼ではないか。

         四

 古來支那で革命の起る際には、國内の秩序が立たず、又擾亂の爲に農耕が廢して、穀物が缺乏するから、自然人肉の食用が盛に行はるるのが一の慣例となつて居る。既に東漢の王充が、「敗亂之時。人相啖食」(『論衡』卷二十、論死篇)と公言した程である。就中唐の末期に、この蠻風が前代の慣例以上に甚しく流行した。この事實が當時支那に往來した、マホメット教徒の見聞に觸るるのは、當然と申さねばならぬ。今試に『資治通鑑』に據つて、〔Abu^ Zayd〕 の時代に當該する、四十年間に起つた食人肉に關する記事を左に開列する。勿論こは『資治通鑑』一書に見えた記事のみで、他の公私の記録を廣く渉獵したものでないから、必しも當時に於ける人肉食用の事實を、悉く網羅したものでないことを、特に附記して置く。

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年代 「記事」
(1)[#「(1)」は縦中横]唐僖宗中和二年(八八二)四月 「長安城中。斗米直三十緡。賊賣[#二](買?)人於官軍[#一]以爲[#レ]糧。官軍或執[#二]山寨之民[#一](良民避[#レ]亂入[#レ]山築[#レ]柵自保者)鬻[#レ]之。人直數百緡。以[#二]肥瘠[#一]論[#レ]價。」
(2)[#「(2)」は縦中横]僖宗中和三年(八八三)六月 「時民間無[#二]積聚[#一]。{黄巣}賊掠[#レ]人爲[#レ]糧。生投[#二]於碓磑[#一]。併[#レ]骨食[#レ]之。號[#二]給糧之處[#一]。曰[#二]舂磨寨[#一]。」
(3)[#「(3)」は縦中横]僖宗光啓三年(八八七)六月 「{揚州}城中乏[#レ]食。樵採路絶。宣州軍始食[#レ]人。」
(4)[#「(4)」は縦中横]同年九月 「高駢在[#二]{揚州城内}道院[#一]。秦彦供給甚薄。左右無[#レ]食。至[#下]然[#二]木像[#一]。煮[#二]束帶[#一]食[#レ]之。有[#中]相啗者[#上]。」
(5)[#「(5)」は縦中横]同年十月 「楊行密圍[#二]廣陵(揚州)[#一]。且[#二]半年[#一]。城中無[#レ]食。米斗直錢五十緡。草根木實皆盡。以[#二]菫泥[#一]爲[#レ]食[#レ]之。餓死者大半。宣{州}軍掠[#レ]人。詣[#レ]肆賣[#レ]之。驅縛屠割。如[#二]羊豕[#一]。訖無[#二]一聲[#一]。積骸流血。滿[#二]於坊市[#一]。」
(6)[#「(6)」は縦中横]僖宗文徳元年(八八八)二月 「{李}罕之。所部。不[#二]耕稼[#一]。專以[#二]剽掠[#一]爲[#レ]貨。啗[#レ]人爲[#レ]糧。」
(7)[#「(7)」は縦中横]昭宗龍紀元年(八八九)六月 「楊行密圍[#二]宣州[#一]。城中食盡。人相啗。」
(8)[#「(8)」は縦中横]昭宗大順二年(八九一)四月 「{王}建陰令[#下]東川將唐友通等。擒[#二]{韋}昭度親吏駱保於行府門[#一]。臠[#中]食之[#上]。」
(9)[#「(9)」は縦中横])同年七月 「{孫儒}悉焚[#二]揚州廬舍[#一]。盡驅[#二]丁壯及婦女[#一]度[#レ]江。殺[#二]老弱[#一]以充[#レ]食。」
(10)[#「(10)」は縦中横]昭宗景福二年(八九三)二月 「{李}克用逆[#二]{王鎔軍}[#一]。戰[#二]於叱日嶺下[#一]。大破[#レ]之。斬首萬餘級。河東軍無[#レ]食。脯[#二]其尸[#一]而啗[#レ]之。」
(11)[#「(11)」は縦中横])昭宗乾寧元年(八九四)五月 「王建攻[#二]彭州[#一]。城中人相食。」
(12)[#「(12)」は縦中横]昭宗天復二年(九〇二)十一月 「是冬大雪。{鳳翔}城中食盡。凍餒死者。不[#レ]可[#レ]勝[#レ]計。或臥未[#レ]死。已爲[#二]人所[#一レ]※[#「咼−口」、169−16]。市中賣[#二]人肉[#一]。斤直錢百。犬肉直五百。{李}茂貞儲※[#「にんべん+待」
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