服者(Vainqueur)はその國を奪ひ、すべてを荒し、その住民のすべてを食ひ盡くした。
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となつて居る。以下の文句には殆ど相違がない。
 (※[#ローマ数字III、1−13−23])[#「(※[#ローマ数字III、1−13−23])」は縦中横] 支那では既婚の男子が既婚の女子と姦通する時は、(彼等は)死刑に處せられる。泥棒(voleurs)及び人殺(を行うた人)達(meurtriers)も、之と同樣である。彼等(死刑犯罪者)を殺す方法を茲に示す。……罪人を望み通りの状態に置くと、特にその用途に定められて居る笞を以て、罪人の身體の中で、致命を與へ得べき部分を毆打する。毆打の數は一定して居つて、それを超過することは許されない。かくてその罪人は蟲の息を餘すばかりであるから、彼を食べるに違ひない人々(の手)に引渡して仕舞ふ(Renaudot; pp. 35−36. Reinaud; Tome I, pp. 69−70. Ferrand; pp. 79−80)。
 Ferrand 譯の前半は、
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以前身持の良かつた二人の男女が、姦通を行ふと、(彼等は)死刑に處せられる。泥棒及び刺客達(assassins)も同一の罰を受ける。(此等の)死刑犯罪者は次の如き方法で、刑を執行される。
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となつて居る。
 以上が『印度支那物語』中に見えて居る、支那人の Cannibalism に關する記事のすべてである。この物語を佛譯したフランスの Reinaud は、この記事に疑惑を挾み、當時支那は紛亂を極めて、殆ど無政府ともいふべき時代であつたから、或は一時的現象として、かかる蠻風が存在したかも知れぬが、恐らくはマホメット教徒――〔Abu^ Zayd〕――訛傳で、事實に非ざるべしと解釋して居る(Relation des Voyages. Tome II, pp. 41−42. Note 139)。併しこは Reinaud が、支那に古代から食人肉の風習が存在し、殊にこの物語の時代、即ち唐末に於て、この蠻風が尤も廣く尤も盛に流行した事實を知らざる故で、Solayman や 〔Abu^ Zayd〕 の所傳には、何等誤謬がないのである。

         二

 支那人は世界に誇負すべき悠遠なる文化を有せるに拘らず、彼等は古代から現時に至るまで、上下三千餘年に亙つて、繼續的に Cannibalism の蠻習をもつて居る。恐らく世界の中で支那人程、豐富な Cannibalism の史料を傳へて居る國民は他にあるまい。古代から支那人が食人肉の風習を有したことは、經史に歴然たる確證が存在して、毫も疑惑の餘地がない。『韓非子』の難言篇に據ると、殷の紂王は自分の不行跡を諫めた人々を罪し、翼侯を炙とし、鬼侯を※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]とし、梅伯を醢にしたといふ。炙は人肉を炙ること、※[#「月+昔」、第3水準1−90−47]は人肉を乾すこと、醢は人肉を※[#「くさかんむり/坐」、第4水準2−86−26]《きざ》み、麹や鹽を雜へて酒漬にすることで、何れも人肉を食用に供することを前提とした調理法に過ぎぬ。紂王は又文王の子の伯邑考といふを烹て羹《あつもの》となし、その羹を文王に食せしめたといふことで、西晉の皇甫謐《クワウホヒツ》の『帝王世紀』――『史記正義』の殷本紀の注に引く所に據る――に、
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文王之長子曰[#二]伯邑考[#一]。質[#二]於殷[#一]。爲[#二]紂御[#一]。紂烹爲[#レ]羹賜[#二]文王[#一]曰。聖人當[#レ]不[#レ]食[#二]其子羹[#一]。文王食[#レ]之。紂曰誰謂[#二]西伯聖者[#一]。食[#二]其子羮[#一]尚不[#レ]知也。
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と記してある。
『帝王世紀』や『韓非子』は、殷末を距ること遠い記録で、それらの記事は、その儘に信憑出來ぬとしても、春秋戰國時代に降ると、支那人間に食人肉の風習の行はれたことは、その當時の記録に明記されて居つて疑ふことが出來ぬ。第一春秋の霸者を代表する齊桓晉文、何れも人肉を食用した。齊の桓公が魯國に對して、その仇敵たる管仲の引渡しを要求した時の口上を、『左傳』の莊公九年の條に、「管仲讎也。請受而甘心焉」と記してある。『史記』の齊世家に同一事を、「請得而醢[#レ]之」と記して居る。怨ある人若くは罪ある人の肉を醢にすることは、春秋戰國時代を通じて、支那では決して稀有でなかつた。例へば宋人が宋の閔公を弑した南宮萬や猛護を醢にしたことが、『左傳』莊公十二年の條に見えて居る。孔門の子路が衞國の内亂の際に、その反對黨の爲に殺されて肉を醢にせられ(『禮記註疏』卷六、檀弓上)、又齊の※[#「さんずい+緡のつくり」、第4水準2−78−93]王の軍が燕に侵入した時、燕の奸臣子之を醢にしたといふ(『史記集解』燕世家の註に引く所の『汲冢周書』)。人肉食用の風習の存在を承認せずには、人肉を醢にするといふ記事を了解することが六ヶ敷い。
 『韓非子』に、
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桓公好[#レ]味。易牙蒸[#二]其首子[#一]而進[#レ]之(二柄篇)。
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といひ、又、
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易牙爲[#レ]君主[#レ]味。君之所[#レ]未[#二]嘗食[#一]。唯人肉耳。易牙蒸[#二]其首子[#一]而進[#レ]之。君所[#レ]知也(十過篇)。
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といふに據ると、桓公はその嬖臣易牙の調理した、子供の肉を食膳に上せて、舌鼓を打つたものと認めねばならぬ。
 晉の文公は天下を周游した際、齊に往き桓公の女を娶つて、茲に一生を託せんとした。彼の舅にして從臣たる狐偃は之を憂ひ、彼に酒を勸め、その沈醉中に齊を引き拂つた。酒覺めて後ち、此の處置に不滿を懷いた文公は狐偃を罵つて、「吾食[#二]舅氏之肉[#一]其知[#レ]厭乎」(『國語』晉語四)といひ、之れと對して狐偃は、「偃之肉腥※[#「月+繰のつくり」、第3水準1−90−53]。將焉用[#レ]之」(同上)と申して居る。この問答の裡にも、髣髴として當時食人肉の風習の存在せしことを肯定せしむるではないか。しかのみならず文公はその周游中、食盡きた時に、從臣の一人なる介子推の股肉を食して飢を凌いだことが、『莊子』の盜跖篇に、
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介子推至忠也。自割[#二]其股[#一]。以食[#二]文公[#一]。
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と記してある。
 晉の文公の子襄公の時、晉が秦と兵を交へた。秦軍大敗してその大將の百里奚孟明視等が捕虜となつた。秦の方では襄公にこの孟明視等の引渡しを願つて、自分の手で嚴重な處分を加へたい希望を申出た。『左傳』の僖公三十三年の條に、その事實を「寡君若得而食[#レ]之不[#レ]厭」と記してある。秦の君(穆公)が、孟明視等の肉を食うても、飽き足らぬ程怒つて居るといふ意味である。又楚の莊王の時、楚が晉に會戰することの可否に就いて、楚の令尹たる孫叔敖と、莊王の嬖臣の伍參と、意見を異にして爭論せし有樣を、『左傳』の宣公十二年の條に、
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嬖人伍參欲[#レ]戰。令尹孫叔敖弗[#レ]欲。曰。……戰而不[#レ]捷。參之肉其足[#レ]食乎。參曰。……不[#レ]捷。參之肉將[#レ]在[#二]晉軍[#一]可[#レ]得[#レ]食乎。
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と記載してある。『戰國策』の中山策の條を見ると、中山の君がその臣下に外國に内通する噂ある者に對して、吾食[#二]其肉[#一]。不[#二]以分[#一レ]人と申して居る。此の如き不忠なる者には殺戮を加へ、その肉は自分一人にて飽食するといふことで、惡むこと甚しき意味を述べたものであらう。齊人魯仲連が邯鄲城内で、趙をして秦を尊んで帝を稱せしむべく運動中の、梁の將軍新垣衍に面會して、その運動の不可なる所以を説き、「吾將[#レ]使[#三]秦王。烹[#二]醢梁王[#一]」と申して居る(『史記』卷八十三、魯仲連傳)。秦の帝となり天下を統一した曉には、趙や梁(魏)の國王の生殺の權は、秦王の掌握に歸すといふ意味である。此等の記事を以て、當時の支那人が人肉を食用した、直接の證據に供することは、或は多少早計かも知れぬ。併し此の如き食[#レ]肉とか醢[#レ]肉とかいふ言顯法の慣用さるることは、その根柢に、人肉食用の事實の存在を前提とせねば、理會し難いと思ふ。かかる文句の疊見することは、やがて古代の支那人間に、Cannibalism の行はれた、間接の證據に供して差支あるまい。
 東周の定王の十三年(西暦前五九四)に、楚の莊王が宋を圍んだ。宋軍は糧食空乏して、遂に和を願ひ出でたが、『左傳』にその事を記して、
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敝邑易[#レ]子而食。析[#レ]骸而爨(宣公十五年)。
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といひ、『列子』の説符篇に同一事を記して、
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楚攻[#レ]宋圍[#二]其城[#一]。民易[#レ]子而食[#レ]之。析[#レ]骸而炊[#レ]之。
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といふ。『戰國策』の齊策に、齊の田單が聊城に燕軍を攻圍した時の有様を記して、食[#レ]人炊[#レ]骨とある。秦漢以後の記録にも、よく此等と同一、若くは類似の文句が見當る。此等の文句は何れも城守困乏の甚しき状況を形容したものとも解し得るけれども、後世飢饉の際に、支那人は彼此その子を易へて食に充てた實例に照らすと、又籠城久しきに亙る場合、支那人はよく人肉を糧食に供した實例に照らすと、此等の文句は、單なる形容以上に、幾分の事實を傳へたものと斷ぜねばなるまい。
 『莊子』の盜跖篇に據ると、孔子が大泥棒の盜跖を説諭に出掛けた時、盜跖は人肉を肴に晝食を取りながら、孔子を恫喝して、
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疾走歸。不[#レ]然。我將[#下]以[#二]子肝[#一]益[#中]晝餔之膳[#上]。
[#ここで字下げ終わり]
というた。『莊子』には寓言が多いから、孔子と盜跖の問答などは、勿論その儘に事實と受取ることが出來ぬけれども、盜跖篇の作者が、此の如き文句を使用して居る點が、Cannibalism の研究者にとつて、一顧の價あると思ふ。荀子が陵墓發掘のことを論じて、
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雖[#二]此※[#「にんべん+果」、第3水準1−14−32]而埋[#一レ]之。猶且必※[#「てへん+日」、163−7]也。安得[#二]葬埋[#一]也。彼乃將[#下]食[#二]其肉[#一]。而※[#「齒+乞」、第4水準2−94−76][#中]其骨[#上]也(『荀子』正論篇)。
[#ここで字下げ終わり]
といへるは、假定の推理で、當面の事實を述べたものではないが、併し彼が澆季の時勢を憤慨して、「故脯[#二]巨人[#一]而炙[#二]嬰兒[#一]矣」(正論篇)と述べたる所は、彼が見聞した事實と認むべきであらう。『戰國策』の中山策に、魏の樂羊が中山を圍んだ時、中山の人はその城中に居つた樂羊の子を烹て羮を作り、之を樂羊に贈つたことを記して、
[#ここから2字下げ]
樂羊爲[#二]魏將[#一]攻[#二]中山[#一]。其子時在[#二]中山[#一]。中山君烹[#レ]之作[#レ]羮致[#二]於樂羊[#一]。樂羊食[#レ]之。
[#ここで字下げ終わり]
といひ、ほぼ同一の記事が『韓非子』(説林上篇)にも見えて居るのは、明かに人肉食用の事實である。
 若し仔細に先秦の經傳諸子を點檢したならば、更に幾多の材料を提供し得るであらうが、上來の憑據だけでも、十分に支那古代に於ける Cannibalism の存在を證明するに足ると思ふ。

         三

 秦漢以後も歴代の正史記録に、Cannibalism の事實が疊出して居つて、支那人の人肉を食用するのは、決して一時の偶發でなく、寧ろその傳統的慣習なることを發見することが出來る。『史記』の項羽本紀を見ると、漢楚交戰時代に、楚の項羽は漢の高祖の父太公を擒として、之を俎上に置いて高祖を威
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