とせねば、理會し難いと思ふ。かかる文句の疊見することは、やがて古代の支那人間に、Cannibalism の行はれた、間接の證據に供して差支あるまい。
 東周の定王の十三年(西暦前五九四)に、楚の莊王が宋を圍んだ。宋軍は糧食空乏して、遂に和を願ひ出でたが、『左傳』にその事を記して、
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敝邑易[#レ]子而食。析[#レ]骸而爨(宣公十五年)。
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といひ、『列子』の説符篇に同一事を記して、
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楚攻[#レ]宋圍[#二]其城[#一]。民易[#レ]子而食[#レ]之。析[#レ]骸而炊[#レ]之。
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といふ。『戰國策』の齊策に、齊の田單が聊城に燕軍を攻圍した時の有様を記して、食[#レ]人炊[#レ]骨とある。秦漢以後の記録にも、よく此等と同一、若くは類似の文句が見當る。此等の文句は何れも城守困乏の甚しき状況を形容したものとも解し得るけれども、後世飢饉の際に、支那人は彼此その子を易へて食に充てた實例に照らすと、又籠城久しきに亙る場合、支那人はよく人肉を糧食に供した實例に照らすと、此等の文句は、單なる形容以上に、幾分の
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