肉腥※[#「月+繰のつくり」、第3水準1−90−53]。將焉用[#レ]之」(同上)と申して居る。この問答の裡にも、髣髴として當時食人肉の風習の存在せしことを肯定せしむるではないか。しかのみならず文公はその周游中、食盡きた時に、從臣の一人なる介子推の股肉を食して飢を凌いだことが、『莊子』の盜跖篇に、
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介子推至忠也。自割[#二]其股[#一]。以食[#二]文公[#一]。
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と記してある。
 晉の文公の子襄公の時、晉が秦と兵を交へた。秦軍大敗してその大將の百里奚孟明視等が捕虜となつた。秦の方では襄公にこの孟明視等の引渡しを願つて、自分の手で嚴重な處分を加へたい希望を申出た。『左傳』の僖公三十三年の條に、その事實を「寡君若得而食[#レ]之不[#レ]厭」と記してある。秦の君(穆公)が、孟明視等の肉を食うても、飽き足らぬ程怒つて居るといふ意味である。又楚の莊王の時、楚が晉に會戰することの可否に就いて、楚の令尹たる孫叔敖と、莊王の嬖臣の伍參と、意見を異にして爭論せし有樣を、『左傳』の宣公十二年の條に、
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嬖人伍參欲[#レ]戰。令尹孫
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