S七十五、張養浩傳)。
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といへるが如き、奇特な官吏もあるが、こは寧ろ寥々たるもので、その大多數は之を機會に中飽の慾を恣にするに過ぎぬ。後漢の獻帝の興平元年(西暦一九四)に、大饑饉が起つた時、獻帝は太倉の米豆を出して饑民を救助せしめたに拘らず、京師に餓※[#「くさかんむり/孚」、第3水準1−90−90]が續出した。之に疑惑を挾んだ獻帝は、その面前にて救恤の米豆を檢覈せしめて、關係官吏の不正を發覺し、その不正官吏を處罰してから、救助の實績が擧つたといふ(『後漢書』卷九、獻帝本紀)。之と類似の實例は、歴代の記録に疊見して居つて、一々列擧するに堪へぬ。兔に角朝廷の賑恤も、十分に下民に徹底せぬ場合が多い。
以上の如き事情の下に、支那では大饑饉の時に、他國人の到底想像し得ざる程多數の餓死者を出す。比較的信憑すべき報道に據ると、道光二十九年(西暦一八四九)の凶荒には、一千三百七十五萬人が餓死し、光緒三四年(西暦一八七七―一八七八)の饑饉には、九百五十萬人が餓死したと傳へられて居る(Rockhill; Inquiry into the Population of China.{Smithsonian Miscellaneous Collections, Vol. 47, Part 3}pp. 313, 316)。されば大饑饉の時に、支那人の間に人相食といふ事件の現出するのは、當然と申さねばならぬ。最近民國九年(西暦一九二〇)に於ける北支那の饑饉には、諸外國からの救助も相當に行き渡つたから、人肉食用の蠻行は起らなかつた樣であるが、光緒四年の饑饉には、この蠻行が實現して居る(Williams; Middle Kingdom. Vol. II, p. 736)。
上に紹介して置いた Hosie の論文に、唐初から明末に至る、約一千年間に於ける饑饉に伴つて起つた Cannibalism の事蹟をも注意してあるが、擧一漏九底のもので決して完全でない。支那でやや大なる饑饉があれば、Cannibalism が殆ど必然的に現出する。歴代正史の食貨志や、五行志に見える實例だけでも驚くべき程多い。正史以外の野乘隨筆等に散見する事例も、中々尠くない。饑饉に伴つて起る Cannibalism は、支那では餘りに普通で、態※[#二の字点、1−2−22]列擧する必要を見ぬ。多數の
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