u※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した事實も多いが、又敵陣を陷れ敵地を略して、その兵民を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した事實も尠くない。(2)[#「(2)」は縦中横]の黄巣、(3)[#「(3)」は縦中横]の宣州軍、(6)[#「(6)」は縦中横]の李罕之、(9)[#「(9)」は縦中横]の孫儒、(10)[#「(10)」は縦中横]の李克用の場合のごときは、大體に於て後者に屬すべきもので、〔Abu^ Zayd〕 の記事の正確なることを保證すべき實例である。敵國を侵略若くば併合する際に、敵の捕虜を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食するといふ蠻習は、この以後でも時々支那で實行された。北宋の初期の乾徳元年(西暦九六三)に、宋軍が湖南征伐を行うた際、宋の兵馬都監李處耘の部下は敵の捕虜を※[#「口+敢」、第3水準1−15−19]食した。『宋史』にこの事實を、
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{宋軍}至[#二]敖山砦[#一]。賊棄[#レ]砦走。俘獲甚衆。{李}處耘釋[#二]所[#レ]俘體肥者數十人[#一]。令[#三]左右分[#二]啗之[#一]。黥[#二]其少健者[#一]。令[#三]先入[#二]朗州[#一]。……黥者先入[#レ]城。言[#三]被[#レ]擒者悉爲[#二]大軍所[#一レ]啗。朗人大懼。縱[#レ]火焚[#レ]城而潰(卷二百五十七、李處耘傳)。
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と記してある。この李處耘は實に宋の太宗の皇后、即ち明徳皇后の實父に當るから驚く。
李處耘と關聯して憶ひ出されるのは、同時代の王繼勳である。彼は宋の太祖の皇后即ち孝明皇后の近親であるが、性疎暴で屡※[#二の字点、1−2−22]その使役せる子女を殺し食したといふ。この人に關しては、南宋の趙與時の『賓退録』卷七に下の如く傳へてある。
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本朝王繼勳。孝明皇后母弟。太祖時屡以[#レ]罪貶。後以[#二]右監門衞率府副率[#一]。分[#二]司西京[#一]。殘暴愈甚。強市[#二]民間子女[#一]。以備[#二]給使[#一]。小不[#レ]如[#レ]意。即殺而食[#レ]之。以[#二]※[#「木+彗」、172−8]※[#「木+賣」、第4水準2−15−72][#一]貯[#二]其骨[#一]。棄[#二]之野外[#一]。女僧及鬻[#レ]棺者。出[#二]入其門[#一]不[#レ]絶。太宗即位。會
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