執へ、之を金に換へて賊軍の糧食に資するが如きは、支那以外の他國では、到底見當らぬ咄々《とつとつ》怪事と思ふ。
 唐の中世以後揚州は支那第一の大都會であつた。當時揚一といふ諺があつて、富庶繁華を以て天下に冠絶して居つた。所が唐末紛擾の際に、殊に當時の軍界の元勳たる淮西節度使の高駢が失勢して以來、揚州は群雄爭奪の區となり、多年修羅の巷となつた。『舊唐書』にその光景を傳へて、次の如く記してある。
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廣陵(揚州)大鎭。富甲[#二]天下[#一]。自[#二]{畢}師鐸、秦彦之後[#一]。孫儒{楊}行密。繼踵相攻。四五年間。連[#レ]兵不[#レ]息。廬舍焚蕩。民戸喪亡。廣陵之雄富掃[#レ]地矣(卷百八十二、秦彦傳)。
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 この間揚州の住民は、文字通りに塗炭の苦を受け、魚肉の厄に罹つた。『五代史記』に上の(5)[#「(5)」は縦中横]に紹介した同一事實を記して、
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是時城中倉庫空虚。飢民相殺而食。其夫婦父子。自相牽。就[#レ]屠賣[#レ]之。屠者※[#「圭+りっとう」、171−3]剔如[#二]羊豕[#一](卷六十一上、呉世家)。
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と傳へて居る。酸鼻至極の記事ではないか。
 揚州は唐代の外國貿易港の一で、多數のマホメット教徒が茲に滯在して居つた(大正八年十月の『史學雜誌』に掲げた拙稿「イブン・コルダードベーに見えたる支那の貿易港」六二―六四頁[#ここに「本全集第三卷所收」と注記])。黄巣の反亂は廣く且つ詳に、マホメット教徒の間に知られて居つた(Reinaud; Relation des Voyages. Tome I, pp. 63−68. 〔Mac,oudi〕; Les Prairies d'Or. Tome II, pp. 302−306)。されば黄巣の行つた虐殺、揚州に於ける慘事も、亦彼等の耳目に觸れた筈である。〔Abu^ Zayd〕 の傳へる(※[#ローマ数字II、1−13−22])の記事は、當時のマホメット教徒の見聞に本づけるもので、大體に於て事實と認めねばならぬ。唐末四方に獨立割據した節度使達が、勝手氣儘に弱肉強食の爭を釀したのも事實であれば、その爭奪の犧牲となつた土地の荒廢し、住民の難澁したのも事實である。上に『資治通鑑』に據つて紹介した記事の中には、籠城久しきに亙つて、味方同
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