位であるから、儒者のみが保守的と非難する譯ではないが、儒教が尤も勢力を有しただけ、殊に漢以後は儒教が國教ともいふべき位置に立つただけ、支那人の間に及ぼした感化影響の大なることは否定出來ぬ。
 併し我が輩はここでその原因を研究するのが目的でない。支那人が保守的である事實と、その影響を述べるのが主意である。
 西晉の武帝の時代に、今より約千六百年前に、有名な杜預といふ人があつた。當時の都は洛陽で黄河に近い。河北から洛陽に往來するには、必ず孟津の渡で黄河を横切らねばならぬ。所が黄河の流急にして、往々渡船が轉覆して、諸民が難澁した。そこで杜預は、黄河に舟橋を架して、この憂を除かんことを獻議した。武帝はこの杜預の申出に對して、群臣の意見を徴したが、何れも古代の聖人すら、黄河に舟橋を架せなんだといふ事實を楯にして、
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殷周所[#レ]都。歴[#二]聖賢[#一]而不[#レ]作者。必不[#レ]可[#レ]立故也。
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とて反對した。併し杜預は群臣の反對にも拘らず、殷・周の聖賢すら着手せなかつた、黄河の舟橋を見事成功して、叡感に預かつたことがある。
 それより四百年程以前に、西漢の孝武帝の時代に、匈奴征伐に苦心したことがあるが、その時齊人の延年といふ者が上奏して、黄河の流を北に移し、匈奴と中國との國境を經て、東海に注がしめたならば、一は以て中國の水災を避くべく、一は以て水軍に不得手な匈奴の侵入を防止し得べく、誠に一擧兩得の良策であると申出でたが、豪傑でも孝武帝は矢張り支那人である。
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〔黄〕河|廼《スナハチ》大禹之所[#レ]道也。聖人作[#レ]事、爲[#二]萬世功[#一]、通[#二]於神明[#一]。恐難[#二]更改[#一]。
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と申し、即ち聖人の禹が定めた黄河の水道を移し改めることは、吾々にて出來る筈がないとて、遂に採用を見合せた。採用せなかつたことの可否は別として、採用せぬ理由が可笑ではないか。
 〔孝武帝より約百年後の孝成帝時代に、黄河の氾濫を防止すべく、※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]防修築の議が起つた時、
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按[#二]經義[#一]。治[#レ]水有[#二]決[#レ]河深[#一レ]川。而無[#二]※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]防壅塞之文[#一]。
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といふ説が勝を制して、※[#「こざとへん+是」、第3水準1−93−60]防の修築は見合せとなつた。この經義とは『書經』の禹貢篇の決[#二]九川[#一]距[#二]四海[#一]、浚[#二]※[#「田+犬」、第4水準2−81−26]※[#「さんずい+會」、読みは「かい」、483−2][#一]距[#レ]川の文句を指すものかと想ふ。河口を切り開き河底を浚渫するのは治水の要諦で、格別不思議とするに足らぬが、但その論據を、二千年以前の事實を記した經書に求めた點が、支那人的で面白いでないか。〕これと類似の事例は、支那史上に頗る多く、一々列擧するに堪へぬ。
 一體支那人は師[#レ]古と稱して、古代の聖賢の行ふたことでなければ[#「なければ」は底本では「なけねば」]信用せぬ。聖賢の行はぬ新事業をやり出すと、不[#レ]師[#レ]古|底《トコロノ》非行として排斥する。秦の始皇帝や、宋の王安石らの改革が、不評判であるのは、他にも原因があるが、主としてこの支那人の保守思想に適せぬからである。
 是故に彼等支那人の間には、先例といふことが豫想以上の大なる勢力をもつてゐる。〔これに就いて面白い事實がある。梁の武帝時代に、領内の州を整理した所、從來中央政府の帳簿によると、百七州あるべきものが、實際調査すると、八十二州しかない。その餘の二十餘州の所在が判明せぬ。併し舊帳簿に登録してあるからといふので、所在不明の二十餘州を削除せずに、本の儘に百七州としたといふ。領内の行政區の所在不明といふのも支那式だが、更にその所在の判明せぬ州をその儘に、保存繼承した點が面白いでないか。これが支那人氣質である。〕
 去る光緒二十六年の十二月(明治三十四年一月)に、西太后が陝西の西安府の行在で發布した、變法自強の上諭の中に、禍[#二]天下[#一]者、在[#二]一例字[#一]とある通り、先例に拘執繋縛されて、支那人は如何程その國運の進歩を阻害したか知れぬ。支那人は古人以外に一機軸を出して、即ち自分で先例を作り出すことを、自[#レ]我始[#レ]古とか、自[#レ]我作[#レ]故《フルキコト》とか稱するが、その始[#レ]古といひ、作[#レ]故といふ字句の間にも、明に彼等の尚古思想が見《あら》はれて居る。
 古人や先例に託すれば、支那人は容易に得心するから、この弱點を利用して、惡事をなし遂げる者が支那に多い。西漢の末に出た王莽といふ大惡人は、漢の天下を簒奪する爲に、萬事昔の周公といふ聖人の言行を模倣する。周公は一飯に三たび哺を吐き、一沐に三たび髮を握つて、天下の士を待つたといふから、王莽も恭謙天下の士に下つた。當時の人は何れも王莽を周公の再來と信じ、四十八萬七千五百七十二人の多數の人士が上書して、王莽に特別の恩賞と待遇を加へんことを出願して居る。かくて王莽は天下の人望の己に歸するのを待つて、時の天子の平帝を毒害した。昔武王が病氣の時、周公が武王の延命を天に祷つたことが、『書經』に載せてあるので、王莽は早速その眞似をやり、自分の毒害した平帝の爲め、身を以て之に代らんことを天に祷るなどの狂言をやつて居る。『春秋』は魯の哀公の十四年を以て終つて居るから、漢も哀帝の即位後十四年目に終るべき筈など言ひ振らして、遂に樂々と漢の天下を簒ひ、代つて天子の位に即いた。王莽は引[#レ]經文[#レ]奸とて、一言一行經書や聖人に託して、大惡をなし遂げたのである。〔王莽はその死後に於てこそ、逆臣元凶として指彈※[#「にんべん+繆のつくり」、第4水準2−1−85]辱されたけれど、その生前に引[#レ]經文[#レ]奸頃には、聖人君子として崇拜されたのである。唐の白樂天の、
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周公恐懼流言日。王莽謙恭下[#レ]士時。若使[#二]當年身便死[#一]。至[#レ]今眞僞有[#レ]誰知。
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といふ詩は、この間の事實を詠じたものである。〕
 三國の魏の文帝曹丕(曹操の子)も亦、堯舜の禪讓といふ先例を借り來つて、首尾よく東漢の天下を簒奪した。支那では古來革命に二の形式がある。一は禪讓といひ、徳ある者を求めて、之に天下を禪るので、堯と舜、舜と禹などがそれである。一は放伐といひ、兵力に訴へて雌雄を爭ひ、雄者が天下を取るのである。殷の湯王が夏の桀王を放ち、周の武王が殷の紂王を伐つたのがそれである。二の中で放伐の方が評判が惡い。戰國時代から兩漢時代にかけて、學者は多く放伐を抑へて禪讓を揚げる。そこで曹丕は東漢最後の獻帝を脅迫して、天下を己に禪らしめ、然も外面だけは再三之を固辭する。堯が舜に天下を禪つた時、その二女娥皇・女英の姉妹を舜に配したといふので、曹丕も獻帝の二女を後宮に迎へるなど、形式的のことまで眞似をやつて居る。今も河南の許州附近に受禪碑があつて、當時の禪讓のことを記して、
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稽[#二]唐禪[#一レ]虞。紹[#二]天明命[#一]。釐[#二]嬪二女[#一]。欽授[#二]天位[#一]。
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など文字を列べてあるが、實に滑稽至極と申さねばならぬ。
 しかしこの方法が案外好評であつたので、その以後支那の革命は、大抵この似而非なる禪讓の形式を採つて居る。その裏面を窺ふと、或は願後身世世、勿[#三]復生[#二]天王家[#一](劉宋の順帝)といひ、或は願自[#レ]今以往、不[#三]復生[#二]帝王家[#一](隋の恭帝)といひ、似而非なる禪讓の犧牲となつた君主の境遇、眞に憐むべきものがあつても、兔に角形式の上では、堯舜の先例その儘になつて居れば、それで支那人は承知するのである。
 支那人は何事をするにも、必ず古人を引き出して來る。西晉の武帝はその太子の惠帝(司馬衷)の暗愚で不評判なるを憂ひ、その才能の程度を實驗する爲に、特に密封にて或る問題を與へて、太子にその答案を提出せしむることにした。その答案の結果如何によつて、太子の廢立を斷行する決心であつた。所が太子の妃の賈氏は中々油斷ならぬ人物で、武帝の眞意を測り知つて、由々しき大事と考へ、祕書の張泓といふ者に命じて、太子に代つてこの答案の草稿を作らしめた。張泓は不用意に、例の如く詩曰とか書曰とか、孔子曰や孟子曰を連發して答案を作つた。その草案を見た賈氏は、太子は暗愚にして、『詩經』や『書經』を知らぬ筈であるのに、かく詩・書や聖賢を引用しては、直に代作の馬脚露見すべしとて、悉く詩曰、書曰の句を削り去り、議論の經路は極めて迂遠ではあるが、歸着は間違つて居らぬ樣な、薄馬鹿らしい答案に改作せしめて、首尾よく武帝の眼を眩まし、太子の位置を完全にしたことがある。暗愚では困るが、普通の人間なら、その論文には必ず經書や古人を引用せねばならぬ慣習は、この事件を見ても明かである。
 〔隋の煬帝は高句麗征伐をやつたことがある。その時百萬の大軍を、左右の二軍各十二隊、併せて二十四隊に分つた。所が統監部から此等諸隊の向ふべき目的地を指示する場合に、六七百年も以前の漢時代の地名を使用して居る。玄菟(郡名)とか樂浪(郡名)とか、蓋馬(縣名)とか黏蝉《ネンテイ》(縣名)とか、沃沮(種族名)とか肅愼《シユクシン》(種族名)とか、甚しきは※[#「あしへん+(榻−木)」、第4水準2−89−44]頓の如き、古代の人名まで使用して居る。此等の地名の的確なる位置は、隋時代に多く不明であつた筈と思ふ。尠くとも隋の統監部では確知せなかつた筈と思ふ。殊に滑稽なのは※[#「あしへん+(榻−木)」、第4水準2−89−44]頓である。※[#「あしへん+(榻−木)」、第4水準2−89−44]頓とは東漢末に遼東方面で勢を振つた、烏丸種族の酋長の名である。無知な統監部は、人名を地名と間違へたらしい。かかる指令を平氣で發する統監部も、かかる指令を呑氣に受ける部隊も、共に呆れ果てたものでないか。抑※[#二の字点、1−2−22]不明な地方や、存在せぬ土地へ、發向すべき命令を受けた當時の各部隊は、如何なる行動を取つたであらうか。世間では支那人を實際的といふ。それも半面の眞理であるが、同時に他の半面では、彼等は存外非實際的なところもある。戰爭の如き生死存亡に關する大事件にも、彼等は呑氣に古代の地名を使用する。不確でも不明でも、古代のものがよいといふ、支那人氣質の一端であらう。〕
 古人や先例を引き出せば、支那人は得心もし信用もするから、自然支那には古人の名に託した僞書が多い。『神農本草經』とか『黄帝素問』とか、『子夏易傳』とか『子貢詩傳』とか、或は『關尹子』或は『鬻子』等、古人の名を負ふた僞書は、一々列擧するに堪へぬ程である。世界の中で支那ほど僞書の多い國はなからうと想ふ。支那の大學者で、僞作家の嫌疑を受けて居る人が尠くない。漢の劉※[#「音+欠」、第3水準1−86−32]、魏の王肅、隋の劉※[#「火+玄」、第3水準1−87−39]など皆それである。古書を僞作する動機は種々あるが、所詮は支那人が古書を尊信するといふことと、離るべからざる關係が存するものと思ふ。

         四 支那人の保守(下)

 支那人は一般に模倣は上手であるが、應用が不得手である。之は勿論彼等の先天的素質にもよることならんが、一は古人の手本のみに重きを置く、いはゆる依[#レ]樣畫[#二]胡蘆[#一]といふ、後天的原因も亦與つて力が多いことと思ふ。それも畢竟先例に重きを置くと同樣、型に捉はれ易い氣質をもつて居るからである。
 三十餘年間支那に居つたスミスといふ米國の宣教師は、曾て支那の教師は無冠の帝王であると評したことがある。支那では教師の一擧一動は、すべて學生の手本となるからである。支那の學生
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