て唐軍は遼東の諸城を陷れて、愈※[#二の字点、1−2−22]高麗の都城の平壤に押寄せるといふことになつた。所がその途中に安市城がある。この城は今の奉天省の蓋平縣の東北に在つて、中々要害堅固に構へてある。そこで太宗は李勣に向ひ、安市城は地險にして兵強く、殊に城主は智略凡ならずと聞く。この城こそ孫子の兵法に謂ふ所の、城有[#レ]所[#レ]不[#レ]攻といふものに當る。この城には押への兵を置き、直に前進して根本の平壤を擣かんと申されたが、李勣は之に反對して、安市城をその儘にしては、軍威を損すること夥しい。この要害な安市城を攻め落せば、他は戰はずして風靡せんとて、是非安市城攻撃を主張したから、太宗は不安心ながらも、總大將の面目を立てる爲、
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以[#レ]公(李勣)爲[#レ]將。安得[#レ]不[#レ]用[#二]公策[#一]。勿[#レ]誤[#二]吾事[#一]。
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とて強いては爭はずに、李勣の意見に從つた。かくて安市城攻撃の全責任は、李勣の雙肩に懸つた。李勣は士卒を悉くして、安市城を攻め立てたけれど、三ヶ月に及んで城は拔けぬ。その中に雪は降り出す、糧は乏しくなる。唐軍は散々の體で本國に引き揚げた。
 唐の太宗といへば、三代以後の明君である。その赫々たる武功に汚點を印したのは、安市城の失敗である。この失敗の責任は、さきに太宗に反對して、安市城攻めを主張した李勣に歸せなければならぬ。李勣にして言責職責の何物たるかを知つたなら、是非安市城を攻め落さなければならぬ筈である。到底攻め落すことが出來ずば、自から責を引いて處決する位の覺悟があつて欲しい。然るに李勣は吾不[#レ]關焉を極めこんで、長い一生を送つたのは、支那第一流の名將と仰がれる李勣の所作としては、甚だ感心出來ぬと思ふ。
 我が豐臣秀吉が天正十五年(西暦一五八七)に、九州征伐に着手した時、略これと同樣の事件が起つた。豐前の秋月種實の兵は、島津の後援を得て、巖石城に立籠つた。巖石城は音に聞えた險阻である。城將熊谷越中も一廉の武將であるから、秀吉は蒲生氏郷を巖石城の押へとして、本軍を前進せしめようと計畫した。氏郷は之を無念に思ひ、是非巖石城の攻撃をと願ひ出たが、秀吉は容易に許さぬ。強願再三に及んで、秀吉も終に氏郷の請を許した。そこで氏郷はこの城を得攻落さねば、切腹と覺悟を定め、必死の勢で攻め立て、僅に一日の中に、さしもの巖石城を陷落さした。この軍威に風靡して、間もなく九州平定の功を收むることが出來た。
 安市城と巖石城とは、必ずしも同樣に行かぬかも知れぬ。併し李勣が氏郷と同一の覺悟をもつて居つたら、今少し何とか良き結果を收め得られたに相違ない。武將としての氏郷の聲望は、遙に李勣の下に在らうが、自分の責任を重ずるといふ點では、萬々李勣に優つて居る。
 責任の自覺、自覺に對する決心、之が我が武士道の神髓である。支那の軍人はここに缺陷がある。支那の梁啓超は曾てその『飮氷室文集』の中に、日本人には日本魂がある。即ち武士道である。然るに支那人には中國魂が見當らぬ。日本と支那との強弱の岐るる原因はここに在る。故に支那今日の最大急務は、日本人の日本魂に劣らぬ中國魂を製造するに在りと主張したことがある。中國魂はしかく容易に製造し得るであらうか。西洋人の中には、支那にも日本に於けるメッケル、トルコに於けるゴルツの如きものあらば、有力な軍隊が組織されると信じて居る者が多い。メッケルやゴルツでも、支那人に中國魂を與へることは容易であるまい。梁啓超の所謂中國魂の成否が、支那の今後の運命の岐かるる所であらう。

         二 支那人の文弱(下)

 兵役を苦にし、戰爭を厭ふ支那人は、概して外國に對して侵略を行はぬ。支那人は古代から華夏と誇稱して、四圍の異族を東夷・西戎・南蠻・北狄などと排斥して居るけれど、特別の場合の外は、決して之に兵力を加へぬ。輝[#レ]徳不[#レ]觀[#レ]兵とか、遠人不[#レ]服修[#二]文徳[#一]以來[#レ]之とかいふのが、支那人の蠻夷に對する大方針である。勿論この方針は理想で、實際に施しての効果は頗る疑はしい。
 支那の北邊に居る塞外種族は、殺戮を以て耕作となし、掠奪を以て本業とする蠻民である。如何に支那人が平和に眷戀しても、彼等は容赦なく侵略を加へる。殷時代の※[#「けものへん+熏」、第4水準2−80−53]鬻、周の※[#「けものへん+僉」、第4水準2−80−49]※[#「けものへん+允」、第4水準2−80−30]、秦漢時代の匈奴、隋唐の突厥・囘※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89]、宋の契丹・女眞・蒙古の如き、皆それである。併し支那人は決して此等の北狄に對して、兵力を以て對抗せぬ。時には以[#レ]夷制[#レ]夷の策を採ることもあるが、多くの場合、金帛を贈つてその歡心を買ひ、彼等の侵入劫掠を緩和するのが、歴代慣行の政策であつた。明治四十四年の秋、支那人(漢人)が革命を起して、滿人(清朝)より獨立した時の檄文に、
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漢人實耕。滿奴食[#レ]之。漢人實織。滿人衣[#レ]之。
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と憤慨の辭を連ねてあるが、この事實は決して清朝時代に限つた譯でない。支那は往古から、北狄の寶藏金庫たるべき運命をもつて居る。南北朝の末に出た突厥の他鉢可汗は、
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但使[#二]我在[#レ]南兩兒(北齊と北周)常孝[#一]。何憂[#二]於貧[#一]。
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というて居る。北狄の君主は、何時もこの他鉢可汗の心を心として、支那を脅迫して榮華を盡したのである。支那にも稀には秦の始皇帝や、漢の孝武帝の如き、豪傑の君主が出て、北狄征伐をやつたこともあるが、兵を窮め、武を涜す者として、支那國民間の評判は決して宜しくない。功を異域に建てた軍人なども、餘り國内では歡迎されぬ。
 西漢時代に西域の副校尉に陳湯といふ豪傑があつて、當時漢の大累をなした匈奴の※[#「至+おおざと」、第3水準1−92−67]支單于を襲ひ殺して、稀有の大功を建てたことがある。所が當時の丞相の匡衡といふ儒者は、制を矯めて――當時陳湯は遠く西域に在り、至急を要することとて、天子の許可を待つに由なかつたのであるが――兵を動かした者に賞を加へては、從來これに倣つて、事を塞外に起すもの續出すべしとて、痛くその功を抑へた。豪傑の陳湯は他の事情もあつたが、かかる大功を建てたに拘らず、その晩年は實に憐むべき悲境に陷つた。
 また唐の玄宗時代に、大武軍の牙將に※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌といふ者があつて、當時塞北に跋扈して、屡※[#二の字点、1−2−22]唐を侵略した突厥の可汗の默啜の首を獲て、之を朝廷に獻じたことがある。この時にも宰相の宋※[#「王へん+景」、第3水準1−88−27]といふ者が、※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌に厚賞を加へると、年少氣英の天子に邊功を獎める結果を生ずべしとて、彼の功を抑へたから、※[#「赤+おおざと」、第3水準1−92−70]靈筌は不平と失望との爲に、遂に慟哭吐血して死んだと傳へられて居る。
 支那人が文弱で怯懦であることは、古き時代から諸外國人の間に知れ渡つて居る。元時代に支那に十數年間滯在したイタリーのマルコ・ポーロは、
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蠻子《マンジ》(南支那人)が若し侵略的種族であつたら、彼等は優に全世界を征服し得るほどの多人數である。されど讀者は杞憂することを要せぬ。此等の蠻子は何れも缺點なき商人、又は怜悧なる職工たるに適するのみで、兵士たるべき資格は全然具備して居らぬ。
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と申して〔居り、また清初に支那に布教したスペインのナヴァレットも、
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支那人は學問を修め、商業を營み、美術骨董品を作るには適當であるが、戰爭をなし得る柄でない。
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と述べて〕居る。
 この點から考へると、日清戰役前後から始まり出し、日露戰役によつて一層流行し、今日猶ほ世界の一大問題となつて居る所謂黄禍論――黄人種が行く行く白人種を壓倒すべしといふ議論――は、頗るその根據を失ふ譯である。勿論黄禍論は可なり複雜であるが、若し黄禍論を戰爭の方面のみに限り、また黄禍の主人公を支那人のみに限つて考へるならば、確に荒誕不稽の論と斷言し得るのである。成る程過去千五百年の間に、アジア人が歐州に侵入して、隨分白人を壓迫した事實はある。西暦五世紀には匈奴の侵入があつた。十三世紀には蒙古の侵入があつた。十五世紀からはトルコの侵略も始まつた。併し此等の殺伐な塞外種族と、文弱なる支那人とを同一視するのは、確に間違であらうと思ふ。
 〔近く百年間の歴史を見渡すと、支那は隨分諸外國相手に交戰して居る。若し義和團の亂に關する北清事件を加へると、殆ど世界の列強のすべてと交戰して居る。されど此等の交戰は、多くの場合、支那にとつて不本意の交戰であつた。支那人の立場から觀ると、これらの戰爭は諸外國から押賣されたものである。去る明治四十年にオランダで開かれた第二囘萬國平和會議で、戰鬪開始の時期が問題となり、或は通告を要すといひ、或は通告を要せずといひ、彼此議論を鬪はした時、列席の支那委員は、戰鬪開始に先だつて通告するのはよいが、相手がその通告に應ぜざる場合は如何にすべきか。我が支那の如きは、何等戰鬪の意思なきに、屡※[#二の字点、1−2−22]諸外國から戰鬪を押賣された。今後も他國から戰鬪開始の通告を受けても、我が國では容易に之に應ぜぬ積りであるから、この場合の規定が必要であると申出たが、滿場から笑殺されて仕舞つたといふ。笑殺されても、支那委員の言ふ所は先づ事實である。澤山な戰爭をしても、支那人は決して好戰でなく、又文弱でないともいへぬ。
 支那人の文弱は一概に輕侮すべきでない。無暗な好戰より文弱の方が、世界の平和の爲にも喜ばしい。されど現在は民族競爭の時代である。武裝の時代である。この時代に、然も時代の犧牲となつて、尤も痛切に列強の壓迫を受けて居る彼等支那人が、依然文弱の氣風を改めぬならば、彼等の前途の爲に痛心に堪へぬ。殊に其の文弱が高遠なる理想に本づくのでなく、目前の怯懦を藏する爲めの文弱の如きは、支那の將來に對して大なる禍根と思ふ。〕

         三 支那人の保守(上)

 支那人は文弱的であると同時に、保守的である。支那人がしかく保守的であるのは、種々の原因があることと思ふ。
 (一)[#「(一)」は縦中横]支那人の先天的性質が保守的である。
 (二)[#「(二)」は縦中横]上古から支那人の文明が、その四隣の異族の間に卓越して居つた。故に支那人は古から自國の文明を自負し、之を唯一絶對のものの如く妄信して、その維持保存に力を用ゐた。この慣習が第二の天性となつたのである。
 (三)[#「(三)」は縦中横]支那人の間に久しく偉大なる勢力を有して居つた儒教そのものが、保守尚古的である。孔子も述而不[#レ]作、信而好[#レ]古というて居る。彼は要するに先王の祖述者で、古代の謳歌者である。尤も孔子は温[#レ]故而知[#レ]新、可[#二]以爲[#一][#レ]師矣というて、古を好むと同時に、現在に對する用意を忽にせぬから、保守主義一方の人ではないが、併しその末學になると、多く保守思想に囚はれて居ることは、爭はれぬ事實である。孟子の如きは、
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遵[#二]先王之法[#一]而|過《アヤマツ》者、未[#二]之有[#一]也。(中略)故曰爲[#レ]高必因[#二]丘陵[#一]。爲[#レ]下必因[#二]川澤[#一]。爲[#レ]政不[#レ]因[#二]先王之道[#一]。可[#レ]謂[#レ]智乎。
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というて居る。兔に角『孟子』七篇の中には、保守尚古の氣分が充滿して居る。
 儒教のみでなく、支那に起つた諸學説は、概して保守主義に傾いて居る。莊子が當時の學者を評して、尊[#レ]古而卑[#レ]今、學者之流也と申して居る
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