はすべて教師の授ける所を鵜呑にする。教師の身振や習癖まで眞似するのに苦心する。
 支那人の挨拶でも文章でも、その他萬般のこと、多く型に入つて居つて、時には滑稽の感を起さしむることがある。北宋の仁宗時代の事であるが、さる年洪水があつて、天子は使者を派遣して、その實地を視察せしめた。その時の使者の復命に、『書經』に堯時代の洪水の有樣を記してある文句をその儘に、蕩蕩|懷《ツツミ》[#レ]山|襄《ノボル》[#レ]陵と述べて、大眼玉を頂戴した笑話がある。明末に明の巡撫が清軍に降服した時、この巡撫は肉袒牽[#レ]羊、作法も辭令も、すべて『左傳』をその儘に眞似をしたから、さしもの清軍も大笑をしたといふ逸事もある。
 今から六七十年も前に、南支那に住んで居つたフランスの宣教師に、ユックといふ人があつた。或る用向の爲に、北京へ飛脚を差立てることになつた。その頃ユックの經營して居つた學校の支那人の教師が北京の産で、彼の年老いたる母親は、一人淋しく北京に暮らし居る。幸ひの機會であるからとて、ユックはその支那人の教師に、母親へ手紙を差出すことを注意してやつた。その教師は非常にユックの好意を感謝しつつ、直に隣室に勉強中の一學生に、
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私は自分の母親に手紙を差出さうと思ふから、御前は一つ代作してくれ。飛脚は間もなく出發する筈故、今から至急認めてくれ。
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と命令した。側に聞いて居つたユックはその教師に、
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彼の學生は君の親類でもあるのか。それとも君の母親に面識でもあるのか。
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と尋ねると、その教師は、
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否彼は一面識もない。勿論我が母親の年齡も住所も知る筈がない。
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と答へた。ユックは一面識もない學生が、いかにして君の代作が出來るかと尋ねると、支那人の教師はさも不思議相な顏付をして、
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私は彼の學生に一年以上文章の作製法を教へた。最早書式や熟語を可なり知つて居る筈である。子から母へ差出す手紙の代作位は容易なことである。
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と答へた。彼是する間に、さきの學生は命ぜられた通り、手紙を認め、且つ封緘して持つて來た。教師は文書の文面をも改め見ずに、その儘封筒に住所を書き添へて、飛脚に渡したといふことである。この事實は一面では、支那人の孝行は、極めて形式的であるといふ證據にもなり、又一面では彼等の手紙は極めて紋切型のものであるといふ證據にもなると思ふ。
 支那人は一般に精神よりも、形式に重きを置く傾向がある。これも彼等の保守氣質と關係せしめて、説明することが出來る。上に述べた通り、支那人は先例を重んじて之を固執する。長い年月の間には、種々の事情の爲、先例そのものの精神が疾《とく》に失はれても、その形式だけを大事に守つて行く。支那人の習慣のうちには、名實隔離して、他國人から觀ると隨分奇妙なことが多い。
 支那人は孝を百行の本として、最大の善行と認める。忠孝と併稱する中にも、支那では孝が國家なり社會なりの基礎となつて居る。歴代の政府は、何れも孝行を獎勵する。孝道尊重は確に支那人の一美點に相違ないが、ただ何事にも精神を後にして、形式を先にする支那人は、孝行といへば、裸體で氷上に臥して、親の病氣の平癒を神に祷るとか、昔の二十四孝の極端な手本を、その儘に眞似する者が尠くない。勿論之には名聞利慾の爲といふ動機も加はつて居るが、兔に角極端な眞似をする。そこで政府は孝行を獎勵しつつも、流石に極端な形式的孝行は時々禁止して居る。
 〔支那は禮儀第一の國である。あらゆる禮儀の中でも、喪禮が古來尤も重大視されて居る。されど後世になると、支那の喪禮は形式のみで精神がない。五胡時代に後燕の昭文帝の皇后の喪禮を行うた時、百官が宮廷に會同して哀を擧げた。一同大聲を揚げて形式的に哭するのみで、泪など流す者は一人もなかつた。昭文帝は彼等の空々しい擧動を心憎く思ひ、目附役に命じて、泪を流して居らぬ者を調査して處分させた。百官達は意外の處分に恐惶して、次の式日からは、皆懷中に唐辛一包づつ用意して置き、哭する場合には、唐辛を含んで強いて泪を出して處分を免れたといふ。
 支那程喪禮の喧しい國はなく、支那ほど喪禮に實哀の伴はぬ國はない。今日でも支那の葬式は、外觀の形式の仰々しい割合に、肝心の死者に對する哀情が伴はぬ。葬列には職業的泣男まで加へるといふが、喪主その人は喫煙しつつ談笑するなど、われわれ日本人から見ると、腹立しく感ぜられる場合が多い。單に喪禮のみに限らず、あらゆる支那の古代の禮教が、その形骸のみを留めて、その精神を失ひつつあるのは、慨しい極みである。〕
 いくら保守的の支那人でも、長い年月の間には、種々の必要上、隨分制度改革を實行した場合も尠くない。併しかかる場合でも、支那人は決して在來の制度を捨てぬ。舊の制度はその儘に保存して、新しき制度をその上に添加するのである。支那人の改革は要するに新しきものを増加することで、舊きものを廢止したり、乃至之を改良することを意味せぬ。歐陽脩などは、唐の官制を精而密とか、簡而易[#レ]行とか、盛に賞讚して居るが、その實、唐の官制は周と秦・漢と、三國以來の新官制とを、殆ど取捨を加へずに合同したもの故、その官制には主義も精神もなく、冗官重複頗る多い。之に比較すると、わが太寶の官制の方が、遙に簡にして要を得、出藍の譽を受くべき資格が十分にあると思ふ。
 清朝の兵制の變遷を見ても同樣である。清朝は最初緑旗(緑營)の兵で地方を守備し、八旗の兵は一面皇城の守備に當り、一面地方の緑營の監督をした。この緑營と旗兵で天下を彈壓したが、時を經る儘に、旗兵も緑營も腐敗して、實戰に間に合はぬ樣になる。長髮賊の起つた時には、各地方で義勇兵が組織されて、これが旗兵・緑營以上の手柄を建てた。そこで亂後もその義勇兵(勇兵)をその儘に保存して、一團の常備軍が出來上つた。併し從前の旗兵や緑營に手を着けぬから、つまり二重の兵制を維持せなければならぬことになつた。日清戰役後、支那で段々洋式の新軍が組織される樣になつても、矢張り從前の兵隊を全く解散せぬ。
 支那人の遣口《やりくち》はすべてこれである。故に支那には嚴密の意味の改革といふことが甚だ稀で、從つて支那には進歩がない。支那の梁啓超が、曾て北京で我が矢野(文雄)公使に面會した時、明治十四年に出來た黄遵憲の『日本國志』によつて、種々の日本のことを質問すると、矢野公使は、
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『日本國志』は約二十年前の書物である。日本の十年間の進歩は、支那の百年以上に當る。『日本國志』で日本の今日を忖度するのは、丁度『明史』に據つて支那の現状を論ずると同樣、事實を距ること遠い。
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と答へた。その後梁啓超は日本に渡來して見ると、矢野公使の言、人を欺かざることを發見したというて居る。
 支那は早くから西洋の新文明に觸接したが、例の保守と自尊とが邪魔をして、中々新文明を採用させぬ。所が日清戰役と日露戰役とによつて、流石に四千年來の長夜の夢を醒まして、變法自強を唱へることになつたのは、よくよくの事で、支那人も自白して居る通り、支那開闢以來未曾有の現象である。保守的な支那人の間に、この革新の氣運が何時まで繼續するかは可なり疑問である。たとひ繼續することにしても、支那人は日本と違つて、古來殆ど自國の文明のみを保持して來たので、他國の文明を攝收して、國運の増進を圖つた經驗が多くない。西洋の新文明を輸入するにしても、如何にして其國の舊文明と調和せしめるであらうか。
 東西の文明の調和といふことは、我が日本にとつても重大なる問題に相違ないが、併し我が國は或は三韓、或は隋唐と、古來外國の文明を取つて、自國のそれと調和せしめた經驗に乏しくない。かかる經驗のない支那は、この問題の爲に、一層の苦心を要すべき筈である。
[#地から3字上げ](大正五年五月『支那研究』所載)



底本:「桑原隲藏全集 第一卷 東洋史説苑」岩波書店
   1968(昭和43)年2月13日発行
底本の親本:「東洋史説苑」
   1927(昭和2)年5月10日発行
※著者自身の「自餘の二十篇は大抵舊作の原文に依つたが、今回付刊の際、全篇を通讀して心附いた點は、若干増補を加へた。その増補の箇所には〔 〕符を附して識別して置いた。」(『東洋史説苑』辨言九則の五)により、〔 〕を使用している。
入力:はまなかひとし
校正:染川隆俊
2002年2月25日公開
2004年2月20日修正
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