軍人の位置の低いのは、決して唐時代に限つた譯ではなく、支那歴代を通じての現象である。支那の諺に好鐵不[#レ]打[#レ]釘、好人不[#レ]當[#レ]兵といふことがある。他に使途のない人間が兵役に就くべく、滿足の人間は決して軍隊に入るべきものでないといふ意味である。また鐵到[#二]了釘[#一]、人到[#二]了兵[#一]といふ諺もある。人間社會の最下底に零落する意味である。支那では兵卒と乞食とは、略同樣に認められて居る。我が國の、花は櫻木、人は武士といふに對照すると、その間に自然國民性の相違も察せられるかと思ふ。
 兵役がしかく卑下せられる支那人の間に、餘り勇將の現はれ來る筈がない。支那の歴史を觀ると、軍人の中に隨分英雄豪傑が多い樣であるが、實際はいかがであらうか。日本の軍人の標準に當て篏めると、多大の割引せなければならぬ樣に思はれる。その一例としてここに唐の李勣と我が蒲生氏郷とを比較して見たい。
 唐の太宗は貞觀十九年(西暦六四五)に高麗征伐に着手して、水陸兩道から高麗を攻めた。その時の總大將は有名な李勣で、太宗自身も遼東に出掛けて、軍事を監督するといふ、中々大仕掛の征伐をやつた。やが
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