ぬから、つまり二重の兵制を維持せなければならぬことになつた。日清戰役後、支那で段々洋式の新軍が組織される樣になつても、矢張り從前の兵隊を全く解散せぬ。
 支那人の遣口《やりくち》はすべてこれである。故に支那には嚴密の意味の改革といふことが甚だ稀で、從つて支那には進歩がない。支那の梁啓超が、曾て北京で我が矢野(文雄)公使に面會した時、明治十四年に出來た黄遵憲の『日本國志』によつて、種々の日本のことを質問すると、矢野公使は、
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『日本國志』は約二十年前の書物である。日本の十年間の進歩は、支那の百年以上に當る。『日本國志』で日本の今日を忖度するのは、丁度『明史』に據つて支那の現状を論ずると同樣、事實を距ること遠い。
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と答へた。その後梁啓超は日本に渡來して見ると、矢野公使の言、人を欺かざることを發見したというて居る。
 支那は早くから西洋の新文明に觸接したが、例の保守と自尊とが邪魔をして、中々新文明を採用させぬ。所が日清戰役と日露戰役とによつて、流石に四千年來の長夜の夢を醒まして、變法自強を唱へることになつたのは、よくよくの事で、支那人も自白して
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