#レ]眠。痛不[#レ]眠。終不[#レ]悔。且喜老身今獨在。不[#レ]然當時瀘水|頭《ホトリ》。身死魂孤骨不[#レ]收。應[#レ]作[#二]雲南望郷鬼[#一]。
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いかに邊功を戒むる目的で作つた樂府とはいへ、隨分手嚴しいものではないか。〔されど白居易のこの記事は、決して一片の空想でなく、率直なる事實である。隋末から唐時代にかけて、當時の青年が、吾とわが手や足を折傷して、之を福手・福足と稱して、兵役に就くことを避けた事實が、信憑すべき歴史に明記されて居る。〕
 かかる國柄であるから、支那では古から軍人となることを不面目として、兵役に就くのを非常に嫌忌する。一例を示すと、唐時代には、文官の方の進士の科には志望者が多いが、軍人の方の武擧には殆ど志望者がない。當時軍人の位置は極めて低い。一家の中で軍人となる者があると、その父兄等は之を非人扱にした。唐代の兵制は我が國のそれと同樣で、地方から京師の守護に番上するのであるが、これを衞士とも侍官ともいふ。當時相罵る時には侍官と稱した。日本なら差當り賤民とか隱亡とかいふ格である。軍人の位置の低いこと、殆ど想像以上といはねばならぬ。
 軍人の位置の低いのは、決して唐時代に限つた譯ではなく、支那歴代を通じての現象である。支那の諺に好鐵不[#レ]打[#レ]釘、好人不[#レ]當[#レ]兵といふことがある。他に使途のない人間が兵役に就くべく、滿足の人間は決して軍隊に入るべきものでないといふ意味である。また鐵到[#二]了釘[#一]、人到[#二]了兵[#一]といふ諺もある。人間社會の最下底に零落する意味である。支那では兵卒と乞食とは、略同樣に認められて居る。我が國の、花は櫻木、人は武士といふに對照すると、その間に自然國民性の相違も察せられるかと思ふ。
 兵役がしかく卑下せられる支那人の間に、餘り勇將の現はれ來る筈がない。支那の歴史を觀ると、軍人の中に隨分英雄豪傑が多い樣であるが、實際はいかがであらうか。日本の軍人の標準に當て篏めると、多大の割引せなければならぬ樣に思はれる。その一例としてここに唐の李勣と我が蒲生氏郷とを比較して見たい。
 唐の太宗は貞觀十九年(西暦六四五)に高麗征伐に着手して、水陸兩道から高麗を攻めた。その時の總大將は有名な李勣で、太宗自身も遼東に出掛けて、軍事を監督するといふ、中々大仕掛の征伐をやつた。やがて唐軍は遼東の諸城を陷れて、愈※[#二の字点、1−2−22]高麗の都城の平壤に押寄せるといふことになつた。所がその途中に安市城がある。この城は今の奉天省の蓋平縣の東北に在つて、中々要害堅固に構へてある。そこで太宗は李勣に向ひ、安市城は地險にして兵強く、殊に城主は智略凡ならずと聞く。この城こそ孫子の兵法に謂ふ所の、城有[#レ]所[#レ]不[#レ]攻といふものに當る。この城には押への兵を置き、直に前進して根本の平壤を擣かんと申されたが、李勣は之に反對して、安市城をその儘にしては、軍威を損すること夥しい。この要害な安市城を攻め落せば、他は戰はずして風靡せんとて、是非安市城攻撃を主張したから、太宗は不安心ながらも、總大將の面目を立てる爲、
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以[#レ]公(李勣)爲[#レ]將。安得[#レ]不[#レ]用[#二]公策[#一]。勿[#レ]誤[#二]吾事[#一]。
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とて強いては爭はずに、李勣の意見に從つた。かくて安市城攻撃の全責任は、李勣の雙肩に懸つた。李勣は士卒を悉くして、安市城を攻め立てたけれど、三ヶ月に及んで城は拔けぬ。その中に雪は降り出す、糧は乏しくなる。唐軍は散々の體で本國に引き揚げた。
 唐の太宗といへば、三代以後の明君である。その赫々たる武功に汚點を印したのは、安市城の失敗である。この失敗の責任は、さきに太宗に反對して、安市城攻めを主張した李勣に歸せなければならぬ。李勣にして言責職責の何物たるかを知つたなら、是非安市城を攻め落さなければならぬ筈である。到底攻め落すことが出來ずば、自から責を引いて處決する位の覺悟があつて欲しい。然るに李勣は吾不[#レ]關焉を極めこんで、長い一生を送つたのは、支那第一流の名將と仰がれる李勣の所作としては、甚だ感心出來ぬと思ふ。
 我が豐臣秀吉が天正十五年(西暦一五八七)に、九州征伐に着手した時、略これと同樣の事件が起つた。豐前の秋月種實の兵は、島津の後援を得て、巖石城に立籠つた。巖石城は音に聞えた險阻である。城將熊谷越中も一廉の武將であるから、秀吉は蒲生氏郷を巖石城の押へとして、本軍を前進せしめようと計畫した。氏郷は之を無念に思ひ、是非巖石城の攻撃をと願ひ出たが、秀吉は容易に許さぬ。強願再三に及んで、秀吉も終に氏郷の請を許した。そこで氏郷はこの城を得攻落さねば、切腹と覺悟を定め、必死の勢で攻め
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