。實際支那人は口喧しいが、決して手出しはせぬ。吾が輩の支那留學中、殊に北支那留學中には、殆ど支那人の掴み合を見たことがない。非常な權幕で口論する場合でも、手出しはせぬ。稀に掴み合を始めても、我々日本人から見ると、極めて悠長なもので、傍で見て居ても齒癢さに堪へぬ程である。
 掴み合すらせぬ支那人が、戰爭で血を流すことを好まぬのは當然である。支那の武といふ字は、止戈の二字から成立した會意文字である。故に武とは武器(戈)を用ふるのではなく、武器を用ゐぬことである。亂暴者が凶器を振り舞はすのを差抑へるのが、武の本意である。『左傳』に武の意義を解釋して、武禁[#レ]暴|※[#「(楫−木)+戈」、第3水準1−84−66]《ヲサム》[#レ]兵とあるのがそれである。『易』に神武不殺と申して居る。武の神髓は不殺に在る。みだりに人を殺害する者は武とはいへぬ。
 支那では唐時代から武廟といふものが出來た。之は孔子の文廟に對して、周の太公望といふ軍師を本尊として、軍の神と崇めたもので、歴代の名將をもここに從祀してある。所が北宋の太祖が曾て武廟に詣り、そこに從祀してあつた秦の白起を指して、この人は降卒數十萬を坑殺した。不武の甚しきもの、武廟に列すべき資格がないとて之を排斥した。さきの神武不殺といふ句と對照すると、武の本意がよく發明される筈と思ふ。
 春秋五霸の一人にも數へられる宋の襄公は、楚と泓といふ河の邊で戰をしたことがある。宋の軍勢は敵軍の河を濟る最中を攻撃せんとした時、襄公は君子は人の困厄に乘ず可らずとて之を許さぬ。やがて敵軍が河を濟り終り、未だ陣を布かざるに乘じて、宋軍が攻撃を開始せんとした時、襄公は復た禮に背けりとて之を許さぬ。敵の用意整へるを待つて、堂々と戰を開いたが、却つて宋軍敗亡いたし、襄公自身も痛手を負ひ、遂に之が爲に落命したことがある。いはゆる宋襄之仁とて、後世の物笑の一となつて居るが、併し『公羊傳』を見ると、當時の世評は非常に襄公を褒めて、たとひ戰爭に負けても禮儀を忘れぬ所が君子である。雖[#二]文王之戰[#一]、亦不[#レ]過[#レ]此也と申して居る。
 支那の文學を見渡しても、尚武的のものは甚だ稀で、その反對に兵役の厭ふべきこと、征戰の苦しきことを詠じたものが頗る多い。既に『詩經』を見てもこの憾はあるが、後世の詩文となると、一層この傾向が目に附く。東漢の陳琳の飮馬長城窟行に、
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生[#レ]兒愼莫[#レ]擧、生[#レ]女哺用[#レ]脯。君獨不[#レ]見長城下。死人骸骨相※[#「てへん+掌」、第4水準2−13−47]※[#「てへん+主」、第3水準1−84−73]。
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とあるのは、唐の杜甫の兵車行に、
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信知生[#レ]男惡。反是生[#レ]女好。生[#レ]女猶得[#レ]嫁[#二]比鄰[#一]。生[#レ]男埋沒隨[#二]百草[#一]。
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とあると同樣、男子は兵役に就かねばならぬから、出生せぬ方が、若くば成長させぬ方が望ましい。女子にはかかる苦勞がないから、男子を生むよりは、むしろ女子を生む方が、利益であると云ふ思想を、露骨に述べたものである。その兵車行に出征の士卒の一族が別を惜しむ有樣を敍して、
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耶孃妻子走相送。塵埃不[#レ]見咸陽橋。牽《ヒキ》[#レ]衣頓[#レ]足※[#「てへん+闌」、第4水準2−13−61]道哭。哭聲直上干[#二]雲霄[#一]。
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とあるが、衣を牽き袖に縋つて哭泣するなど、隨分女々しきことではないか。唐の王翰の涼州詞に、
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醉臥[#二]沙場[#一]君莫[#レ]笑。古來征戰幾人囘。
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の句がある。洒脱の樣にも見えるが、出征軍人の心得としては、不都合千萬と申さねばならぬ。唐の李白の戰城南も、唐の李華の弔[#二]古戰場[#一]文も、何れも戰爭を詛うたものである。
 その尤も極端なものは、唐の白居易(白樂天)の新豐折[#レ]臂翁といふ新樂府である。この樂府は當時の都の長安附近の新豐といふ土地に住居する、右臂の折れた老翁の一生を歌つたもので、この翁が二十四歳の時、雲南征伐に徴發されたが、出征が厭はしき儘、夜中われと我が手で、その右臂を毆《たた》き折り、生れも付かぬ不具者となり、遂に兵役を免除されて故郷に歸り、八十八歳の今日まで長命して居る。折つた臂は時々に痛を起して、徹霄眠られぬ程の苦痛はあるが、六十餘年前に雲南地方へ出征した人は、皆異域の鬼となつて、一人も故郷の土を踏んだものはない。之に比して折臂の翁の一生が、遙に幸福であると述べて居る。
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臂折來來六十年。(中略)至[#レ]今風雨陰寒夜。直到[#二]天明[#一]痛不[
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