支那人の文弱と保守
桑原隲蔵

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)毆《たた》き折り

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(例)瀘水|頭《ホトリ》

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(例)※[#「(楫−木)+戈」、第3水準1−84−66]

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 (例)有[#二]文事[#一]者、
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         緒論

 個人に就いて觀察しても、一人一人にその個性がある樣に、國民なり民族なりにも、それぞれ特有の氣質性癖をもつて居る。それを國民性又は民族性と申すのである。一つの國民なり民族なりの間には、隨分種々なる人間があつて、何等統一する所がない樣であるが、他の國民や民族と比較すると、自然に國民毎に、民族毎に、各自の特質をもつて居る。
 支那人にも無論その民族性がある。支那人の尤も顯著なる民族性は、文弱的であること、保守的であることである。支那人が概して文弱・保守であるといふことは、廣く世間に知れ渡つて居つて、決して耳新しい事ではない。併し歴史上の事實と照らし合せて見ると、この支那民族の特質が一層明瞭になる。故に我が輩はこの論文に於て、主として歴史上の事實を基礎として、支那民族の文弱で保守であることを證明せようと思ふ。

         一 支那人の文弱(上)

 支那人が平和的文弱的である原因は種々あらうが、その主要なるものを擧げると、次の如くであらうと想ふ。
 (一)[#「(一)」は縦中横]支那人の先天的性質がむしろ文弱的である。
 (二)[#「(二)」は縦中横]支那人の間に行はれた古來の學説は、一般に平和思想を鼓吹した。先づ儒教を觀ると、その祖師たる孔子は、弟子の子貢に治國の要件を尋ねられた時、足[#レ]食、足[#レ]兵、民信[#レ]之の三箇條を擧げて居る。即ち一國に財政と軍備と、上下の信用が必要であると答へた。子貢は更にこの三者の中で、已むを得ざる事情の爲、その一を去るべき必要ある時は、先づ何れを去るべきかと尋ねたら、孔子は先づ軍備を去ると答へた。子貢が最後に財政と信用との二者の中で、是非その一を去らざるべからざる場合には、如何すべきかと尋ねた時、孔子は財政を去ると答へて居る。要するに孔子の考へでは、立國の要素は信用に在る。上下相信ぜぬ國は亡國である。故に信用が第一で、次が財政、軍備は更にその次に來るべきものである。この孔子の意見は、萬古に亙れる眞理であつて、決して軍備を輕視したものでない。孔子自身は有[#二]文事[#一]者、必有[#二]武備[#一]と申して居る位で、文弱一點張りの人ではない。併し孟子などは、仁者無[#レ]敵主義を鼓吹する餘り、仁義だに行はば、軍備は論ずるに足らぬかの如き口氣を漏らし、可[#レ]使[#三]制[#レ]梃以撻[#二]秦楚之堅甲利兵[#一]矣などと、武器無用に近き意見を述べて居る。兔に角後世の儒者は、多く軍備を輕視する傾向をもつて居ることは、爭ふべからざる事實である。
 併し儒教はむしろ弊の少き方である。孔子と前後して出た老子の如き、墨子の如き、何れも極端な平和主義を説いて居る。不爭を主張する老子、兼愛(博愛)を主張する墨子は、軍備を無用とし、戰爭を排斥するのは當然のことである。かかる學説の影響を受けた支那人の間には、自然戰爭を厭忌する氣風が増進したに相違ない。
 (三)[#「(三)」は縦中横]先天的に利害打算の念慮の發達した支那人は、小にしては爭鬪、大にしては戰爭、何れも危險の割合に、利益が伴はぬことを夙に承知して、成るべく戰爭や鬪爭をせぬ慣習を養成した。實際支那の塞外の北狄などは、たとひ之を撃破した所が、得る所失ふ所に及ばず、功は勞を償はぬ憾がある。多少の歳幣を贈つて、始めから彼等と戰爭せぬが利益である。支那歴代の政策は、利禄を以て北狄を懷柔して、北邊を侵擾せしめぬ樣に力めて居る。〔往古の支那人は、必しも後世の如く、しかく怯懦ではなかつた。故に漢時代には、胡兵五而當[#二]漢兵一[#一]とさへ稱せられた。事實『史記』や『漢書』『後漢書』をみると、荊軻とか聶政とか、傅介子とか段會宗とか、陳湯とか班超とか、快男子が中々多い。所が歴代の誤つた打算主義・妥協主義の積弊が、代一代と支那人の氣骨を銷磨[#「銷磨」は底本では「鎖磨」]させ、遂に今日の如き怯懦至極な支那人を作り上げたものと想ふ。〕
 支那人が文弱である原因は兔に角、支那人は個人としても腕力沙汰は甚だ稀で、團體としても戰爭は好まぬ。支那人の所謂喧嘩は喧嘩口論である。この意味での喧嘩ならば、支那人は世界有數の喧嘩好きかも知れぬ。支那の學堂や官衙など、人の群集する場所には、必ず禁止喧嘩と掲示してある
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