支那人の妥協性と猜疑心
桑原隲蔵

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)擲槍《なげやり》

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(例)※[#「金+(鹿/れっか)」、第3水準1−93−42]

 [#…]:返り点
 (例)古く欲[#レ]得[#レ]官殺[#レ]人放[#レ]火、
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         緒言

 日本と支那とは、いはゆる唇齒輔車相倚るべき國で、勿論親善の間柄でなければならぬ。兩國の親善を圖る爲には、兩國人が互にその相手の氣質を理會して置く事が、一番必要と思ふ。吾が輩はかかる見地から、歴史的に支那人の氣質を多少研究しかけて居る。茲に掲ぐる支那人の妥協性と猜忌心に關する論文も、實はその研究の一端である。既に六十年以前に、ロンドンタイムスの支那通信員クックが切言した如く、種々の原因があつて、支那人の氣質を正しく理會することは、容易の業でない。從つて吾が輩の支那人氣質に對する見解も亦、或は正鵠を失した所あるかも知れぬ。この點は豫め讀者諸君の承知を得置きたい。

         一 支那人の妥協性(一)

 支那人は尤も妥協性に富んで居る。妥協は確に支那人の一つの國民性と申して差支へない。個人としても國家としても、支那人はよく妥協を行ふ。元來が文弱で、殊に打算に長ずる支那人は、小にしては爭鬪、大にしては戰爭、何れも危險の割合に、利益が伴はぬ事を夙に承知し、成るべく之を避けて妥協を好む譯である。兔に角支那人は大抵の場合よく妥協を行ひ、寧ろ極端まで妥協を濫用する傾向をもつて居ると思ふ。
 北支那に標(※[#「金+(鹿/れっか)」、第3水準1−93−42]《へう》とも書く)局と稱して、旅行者の安全を保障する營業者がある。標とはもと擲槍《なげやり》の如き一種の武器の名で、この武器を携帶せる標師を派出して、依頼を受けた旅行者を護衞するから、標局といふ名稱が出來たと云ふ。北支那一帶、殊に山東地方の古への梁山泊の所在地に當る方面には、なかなか追剥が多い。一家を擧げて、甚だしきは一村一郷を擧げて、行旅を剽掠することを生業とする者が尠くない。かかる物騷な地方を通行する旅客は、標局に就いて一定の保險料を納めると、標局から標車といふ一種の保險馬車を出して旅客を護送する。この標車には幟標《はたしるし》が建ててあつて、之には例の追剥も手出をせぬ。これは標師を憚るよりも、標局から豫め追剥一同に對して附屆を行ひ、雙方の間に妥協默契が成立して居る故である。
 支那人は物質の賣買にはよく秤を使用する。葱でも白菜でも、米穀でも豆腐でも、目方で賣買する。所が支那では度量衡の規定など※[#「厂+萬」、第3水準1−14−84]行されて居らぬから、彼等の使用する秤ほど不信用なものはない。南斗北秤とて、南支那と北支那の間で量衡に相違あるが、同一の北支那でも、秤は區々で一定して居らぬ。かかる不信用なる秤によつて、如何にして物貨を賣買するかといふに、賣手は成るべく自分に都合のよい秤を持ち出し、買手も亦成るべく自分に都合のよい秤を持ち出し、雙方の秤を折衷して目方を決める。かかる妥協方法は、吾が輩の北支那滯在中、屡※[#二の字点、1−2−22]親覩した所である。
 昨年初夏支那に例の排日運動が始つて以來、親日派の政治家は賣國奴として、排日團體から種々の迫害を受けたが、中にも親日派四人男の一人として知られて居る、前駐日公使陸宗輿に對して、彼等は陸宗輿の出身地の浙江省海寧縣の住宅の門前に、賣國者記念碑を建設すべく、醵金募集に着手した。之にはさしもの陸宗輿も大いに閉口し、遂に二萬元といふ大金を排日團體に手渡して妥協を申込み、記念碑の建設を中止せしめたといふ。こは新聞紙上に見えた記事で、その眞僞は保證出來ぬが、支那人としては有り勝のことと思ふ。

         二 支那人の妥協性(二)

 妥協の流行は官界でも民間でも相違はない。支那では流賊でも馬賊でも、山賊でも、海賊でも、少し手剛いと見ると、政府は多くの場合、之を退治するよりは、先づ之と妥協する。即ち政府は以前彼等の同類たる賊徒で、現在官吏になつてゐる者の如何に榮華を極めて居るかを説き、彼等も之にならひ、一日も早く行を改め官に就くべきを勸め、利禄と官職を以て彼等を誘ふのである。支那の記録にはこの妥協に誘ふことを、招安とも招撫ともいひ、この妥協に應ずることを歸誠とも歸順ともいふ。招撫とか歸順とか文字は立派であるが、その内實政府が怯懦を藏する爲、賊徒は利禄を得る爲、雙方妥協するに過ぎぬ。招撫や歸順の實例は、支那の何れの時代にも見出すことが出來る。現在の中華民國で羽振のよい大官の中にも、かかる出身者があると傳へられて居る。それで支那には古く欲[#レ]得[#レ]官殺[#レ]人放[#レ]火、受[#二]招安[#一]といふ諺があつた。放火殺人を行ひ、成るべく暴れ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りて政府を手古摺らせ、然る後に歸順に出掛けるのが、官吏となる出世法の一番捷徑といふ意味である。隨分亂暴な諺だが、實際支那にはかかる時代が尠くないから驚く。
 この賊徒の招安に關して、歴史上種々の笑話が傳へられて居る。南宋時代に政府が多數の賊徒を招安して、之に宣贊舍人(從七品の武官)の官を與へた所が、正當の宣贊舍人は賊徒出身者と同一視されるのを厭ひて、之に抗議を申出た。政府は已むを得ず、正途出身の宣贊舍人には兼官を與へ、兼官を有する宣贊舍人は正途の出身、兼官なき宣贊舍人は招安の出身と、一目瞭然と區別の立つ樣にした。正當出身の宣贊舍人は之で得心したが、今度は招安出身の新宣贊舍人の苦情で、政府はその處置に困惑したといふ。
 又ほぼ同時代に、鄭廣といふ海賊の頭目が歸順して、政府から然るべき官吏に取り立てられたが、その同僚は皆彼の前身を輕蔑して、役所で會食の折にも、彼一人だけは排斥するといふ風であつたが、この排斥された鄭廣は、聖人面する同僚が、支那官吏の常習として、何れも中飽――袖の下――を貪つて居ることを察知して、一日左の如き皮肉な詩一首を作つて、彼等の※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]覽に供した。
  鄭廣有[#レ]詩上[#二]衆官[#一]。文武看來總一般。衆官做[#レ]官却做[#レ]賊。鄭廣做[#レ]賊却做[#レ]官
詩の意味は、諸君は官吏となり、その位置を利用して泥棒を行ひ、自分は泥棒の位置を利用し、招安に應じて官吏となる。唯手段に前後の差あるのみで、畢竟同志同行と稱すべきものなるに、何が故に自分一人を排斥するかといふに在つたから、同僚一同苦笑して、爾後その態度を改めたといふ。

         三 支那人の妥協性(三)

 勿論支那の政府も時に強硬手段をとり、或は大將を派遣し、或は地方官に命じて賊徒を討伐せしむることもある。かかる場合でも、その官吏や大將は、如才なく賊徒と妥協を行ふ。即ち賊徒に金穀を與へてその歡心を買ひ、此の如くして彼等を暫く管外に退散せしめ、若くは正面衝突を避けしむるのである。『韓非子』に昔衞と荊(楚)と交戰した時、その二國の大將が妥協を行ひ、戰爭は二國の君主の勝手に開始せしものなるに、その犧牲となつて何等怨のない兩軍が、命掛けの戰爭するなどは、馬鹿の骨頂なればとて、兵を交へずに久しく對峙したと書いてある。これが支那軍人の多數の心掛けである。「弄[#レ]兵玩[#レ]寇。以爲[#二]富貴之資[#一]」とて、敵とは申譯ばかりに兵を交へて戰爭を長引かせ、成るべく多額の軍用金を政府より引出すことに苦心を費す。唐時代にも幾度か藩鎭征伐を行うたが、徒らに國帑を空しくするのみで、餘り成功がなかつた。その最大原因は、官軍の大將が賊軍と妥協して、兵を弄し寇を弄ぶからである。遠い戰國や李唐時代を引く迄もなく、最近の中華民國の有樣を見ても、成程と點頭《うなづ》かるる所が多い。
 大正六年十一月に、段祺瑞内閣から南方征伐の大權を委任されて湖南へ出陣して居つた、總司令官の王汝賢や副司令官の范國璋らが連署して、弭兵和平の通電を發して、段内閣の瓦解の原因を作つた。この形勢に憤慨して、北方の督軍連が、その十二月に所謂天津會議を開き、段祺瑞の擁護と南方討伐を決議したのはよいが、さて愈※[#二の字点、1−2−22]出陣となると、さきに天津會議の席上で、最も強硬説を主唱したといふ第一路總司令官の曹※[#「金+昆」、第4水準2−91−7]や、第二路總司令官の張懷芝は、何時の間にやら軟化して仕舞ふ。大本營では強硬説が主張せられ、戰線では妥協説が歡迎されるのが、支那古今の常態である。之には種々内面の理由もあるが、支那人は一身の利害の爲には、苟合妥協を濫用して恥づる所を知らぬことも、確にその一大原因と認めねばならぬ。彼等は軍用金を手に入れる目的で、心にもない強硬説を主張するが、目的さへ達すれば、その本性を發揮して、妥協を主張するのである。

         四 支那人の妥協性(四)

 國内に於て妥協を濫用する支那人は、異族に向つても亦妥協を濫用する。北支那なる燕・趙地方は、もと悲歌慷慨の士多しと稱せられたが、それも過去のこと、唐・宋以後となつては、彼等もよく外來の異族と妥協して行く。金の世宗は曾て燕人を評して、「遼兵至則從[#レ]遼。宋兵至則從[#レ]宋。本朝(金人)至則從[#二]本朝[#一]」と罵倒したが、かかる態度は燕人に限らず、支那人全體に普通かと思ふ。女眞人や蒙古人や滿洲人との妥協は兔に角、一八六〇年に英・佛軍の北京進撃の時にも、明治三十三年に聯合軍の北京占領の時にも、北支那人は外國軍隊の前に順民の旗を掲げ、徳政の傘を獻じたではないか。絶えず異族の侵略に暴露さるる支那人には、此の如き態度は一つの必要なる處世法かも知れぬが、日本人などより觀れば、奇怪の念を禁ずることが出來ぬ。
 支那政府の態度も亦同樣である。絶えずその邊疆を剽掠し、又は侵略する北狄種族に對して、兵力を以て抵抗することを敢てせぬ。或は宗女を與へ、或は金帛を贈り、或は土地を割いて彼等の歡心を買ひ、彼等の掠奪を緩和するのが、歴代慣行の政策であつた。この妥協の犧牲となつて塞外に嫁する宗女を、唐時代には和蕃公主と稱した。宋以後は流石にこの和蕃公主を廢止したが、その代り一層惜氣もなく土地を割讓して居る。明治四十四年秋に、支那人(漢人)が革命を起して滿人(清朝)より獨立した時の檄文に、「漢人實耕、滿奴食[#レ]之。漢人實織、滿奴衣[#レ]之」と憤慨の辭を連ねてあるが、かかる事實は決して清朝時代に限つた譯でない。支那は二千餘年の古代から、無理横暴な北狄ともよく妥協して、彼等の寶藏金庫たることを我慢して居る。南北朝の末に出た突厥の君主の他鉢可汗は、「但使[#二]我在[#レ]南兩児(北齊と北周)常孝[#一]。何憂[#二]於貧[#一]」と公言して居る。北狄の君主は何時もこの他鉢可汗の心持をその儘、支那人の妥協癖を奇貨とし、之を威嚇して榮華を貪つて居る。
 西漢の初め匈奴が跋扈して支那政府がその處置に閉口した時、洛陽の才子として當代に聞えた賈誼が、その智嚢を傾けて對匈奴策を建てた。その對匈奴策とは、要するに五餌を以て匈奴を誘ふといふに過ぎぬ。五餌とは耳・目・口等の餌を設け、酒色や利禄で匈奴人の大部分を中國に誘致するをいふ。その一餌は盛裝せる幾十の美人をして、中國に來降せる匈奴人の左右に侍せしめ、匈奴人を肉團の捕虜にして仕舞ふのである。匈奴人好遇の噂を聞いては、塞外の匈奴人は先を競うて中國に投化すること疑ない。かくて匈奴の故土空虚とならば、中國の憂根絶ゆべしといふのが、一代の才子賈誼の對匈奴策の骨子である。
 之と似寄りの話が明時代にもある。明の萬暦年間に、支那政府は北方の韃靼の侵略に閉口して、その對抗策に腐心した時に、瞿九思《クキウシ》といふ學者が面白い建議をした。朔北に美人なきが故に、北虜は容易に故土を離れて敵地に侵掠するのである。若し閨室に美人あらば、彼等は之を見棄
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