てて遠征を企つる筈がない。北虜制御策の祕訣は、朔北に美人を多くし、男子をして女色に惑溺せしむるに限る。就いては此際纏足――支那では纏足が美人の第一の資格と認められて居つた――を始め、その他一切の中國化粧法を朔北に傳へる。かくて朔北の婦人が柳腰蓮歩の美人となつたらば、さしもの北虜もこの可憐な美人に愛着して、往日の獰猛性を失ふに相違ないといふのが、瞿九思の建議の内容である。何と恐れ入つたる妙策ならずや。日本人から觀れば滑稽至極の此策略を、支那人の學者は眞面目に天子の御手許まで建議するのである。我が國でも黒船來航の當初、吉原あたりから似寄りの策略を幕府に獻議したといふが、これは北里の忘八輩の猿知慧に過ぎぬ。支那の如き一代の才子や著名の學者の眞面目な意見と、一樣に扱ふべきものでない。兔に角支那ではかかる笑ふべき妥協(?)對策の方が一般に氣受がよく、それ以上進んで積極的に塞外征伐など行ふと、兵を窮め武を涜すものとして、歡迎されぬのである。

         五 支那人の猜疑心(一)

 支那人は一般に猜疑心が深い。支那に「一人不[#レ]入[#レ]廟。二人不[#レ]看[#レ]井」といふ諺がある。一人で物淋しき寺廟に入らば、何時僧侶――支那で僧侶は多く惡徒と見做されて居る――の爲に人知れず殺害されるかも知れぬ。二人で井戸を俯瞰する際に、何時相手の爲に井底に突き落されて命を失ふかも知れぬ。かかる場合を警戒する諺で、之に由つても、支那人の猜疑心の強い一端を察知することが出來ると思ふ。又支那に『示我周行』といふ題目の旅行案内書がある。その開卷に旅客心得として、江湖十二則を掲げてあるが、概して盜賊・放馬《おひはぎ》・欺騙《かたり》・掏摸《すり》・拐騙《もちにげ》・偸換《すりかへ》等に對する注意に過ぎぬ。こは警察不行屆勝の支那に於ては、當然の注意であるが、同時に他人を泥棒視する、支那人根性の發露とも見受けられる。兔に角支那では、男女の間柄にも、同僚の交際にも、將た君臣父子の關係にも、常に猜疑といふ隱翳が附き纏うて居る。
 申す迄もなく支那は古來革命の國で、君臣の分定つて居らぬ。『左傳』に「君臣無[#二]常位[#一]。社稷無[#二]常奉[#一]」とある通り、今日の臣下も明日の君上となり得る國である。從つて支那の君主は、赤心を臣下の腹中に置くことが難い。絶えず臣下に對して猜疑警戒の眼を見張らねばならぬ。無力なる君主は、或は願後身世世、勿[#三]復生[#二]天王家[#一]といひ(劉宋の順帝)、或は願自[#レ]今以往、不[#三]復生[#二]帝王家[#一]といひ(隋の恭帝)、極端なる恐迫觀念に戰《をのの》きつつ、危惧憂鬱なる一生を送る。有爲の君は、機會ある毎に宿將や權臣を殺戮して、身後の計を立てる。狡兔死、走狗烹。飛鳥盡、良弓藏。敵國破、謀臣亡と諺にある通り、支那の君臣は患難を共にすることが出來ても、富貴を共にすることが出來ぬ。漢の高祖は寛仁大度の君として世に聞えて居るが、その人すら韓信や彭越らの功臣は大抵殺害して仕舞つた。清人黄※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1−90−88]田の詩に、漢家多少韓彭將、不[#レ]得[#二]銘旌一字看[#一]といふ句がある。高祖が功臣に對する恩情の薄きを惜んだものである。温和なる宋の太祖の如きは、巧言を以て宿將を説服して、權要の地を退隱せしめ、刻薄なる明の太祖の如きは、露骨に功臣を誅戮した。手段に寛嚴の相違はあつても、臣下を猜疑するといふ心理は、同一と認めねばならぬ。

         六 支那人の猜疑心(二)

 支那の政治や教育は、儒教を看板として居るけれど、その官制は法家の説に本づく所が多い。法家は人性を惡と豫斷して、之が警戒に重きを置く。法家の極意は、臣下同志をして相掣肘牽制せしめ、無力なる臣下をして、君權を脅かすことなからしむるに在る。法家の思想を繼承する支那歴代の官制は、官吏を信頼するよりも、むしろ官吏を猜疑すべく、官吏を利用するよりも、むしろ官吏を防弊すべく組織されて居る。例へば清朝の官制を一覽しても、官吏の非違を糾察する專門の都察院の外に、多くの官吏が彈劾權を賦與されて居る。かくて中央政府の大官に對して、地方長官が彈劾權を有し、地方長官の間に於て、總督は巡撫を、巡撫は總督を彈劾する權利を有してゐる。此の如く官吏をして相互に監視せしむる官制は、畢竟猜疑心の強い支那人の特質に相應せるものといはねばならぬ。
 支那の官場には※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避といふ制度がある。地方官となるにも、その本籍所在地では就任が出來ぬ。中央官となるにも、その本籍地と直接の交渉多き官衙を避けねばならぬ。又親族關係の者は、同一官衙に奉職することが出來ぬ。科擧の場合にも、試驗官と親族の關係ある者は、その受驗を遠慮せなければならぬ。※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避の制度を立てた精神は、官吏がその親族知人と比周して私を營むべしといふ、上下の猜疑を避くるに在ること申す迄もない。※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避制度の嚴密なることは、支那人の猜疑心の深大なる證據と思ふ。

         七 支那人の猜疑心(三)

 支那の官吏は君主の猜疑と同僚の※[#「女+冒」、第4水準2−5−68]嫉の間に、一身の安全を圖るべく、われわれの想像以上の苦心を費す。賢哲保身とて、一身の安全を圖ることが、支那官吏處世の第一要義となつて居る。昔唐の宰相に婁師徳といふ名臣があつて、その弟も相當出世して地方長官となつた。かく兄弟倶に高位大官を占めては、君主同僚の嫌忌懼るべしとて、心配の餘り、婁師徳が懇々その弟に謙抑すべく注意を加へたに對して、弟が彼に向ひ、「自今雖[#三]有[#レ]人唾[#二]某面[#一]。某拭[#レ]之而已」と答へた時、婁師徳は眉を蹙めて、先方が吾面に吐き掛けた唾を、勝手に拭い取つては、却つて先方の怒を買ふものである。唾はその儘にして置いても、何時かは自然に乾く。笑顏の儘吐き掛けられた唾の乾くを待つべしと教へたといふ。支那官吏の苦心、實に慘憺たるものではないか。
 同じく唐の大臣に蘇味道があつた。事を處するに常に模稜兩端を持し、決して明白なる意見を建てぬ。故に時人蘇模稜と稱したと傳へられて居るが、多少の差こそあれ、支那の官吏は大抵蘇模稜の流亞と思ふ。近代の曾國藩の如きも、拙進而巧退の五字を以て、官場成功の祕訣と申して居る。事實支那官場の如き猜疑百出の裡に立つて、一身の安全を期するには、積極よりは消極、活動よりは寧靜、革新よりは保舊をとる方が得策に相違ない。亢龍は悔があつても、括嚢には咎がない。猜疑心の強い支那人は、他人の爲すべきことには牽掣を加へて、自分の爲すべきことは推※[#「言+委」、読みは「い」、501−11]する。推※[#「言+委」、読みは「い」、501−12]と牽掣では一事も成功する筈がない。光緒三十一年(明治三十八)に、貝子載振が中國の官制改革を奏請した時に、推※[#「言+委」、読みは「い」、501−13]と牽掣を擧げて、中國官制の二大弊竇と指摘して居る。この二大弊竇は、畢竟支那人の猜疑心に由來するものと認めねばならぬ。

         八 支那人の猜疑心(四)

 支那は家族主義の國柄である。その家族の中心をなすべき父子の親といふことが、支那の國家や社會の基礎をなして居る。然るに支那の歴代を見渡すと、家を整へて天下の師表となるべき、天子と皇太子との間に存外不祥事多く、皇太子の終を全くせざる者が尠くない。畢竟皇太子の位置にあるものは、他の皇子から嫉妬され、天子から嫌忌され易い結果に外ならぬ。この歴代の弊に懲りて、清朝では、天子の生前に皇太子を册立せぬのを家憲とした。乾隆帝の作つた『欽定儲貳金鑑』に、委細にその理由を載せてある。かくて天子はその生前に、諸皇子の中で尤も聰明なる者の名を自署し、之を匣内に密封して、乾清宮内の世祖御筆の正大光明と題せる額後に藏して置く。天子の崩御の直後に、王大臣立會の上で、その匣を開きて、署名の皇子を位に即かしむるのである。之を清朝密建の法といふ。かかる制度を設置した一面の理由は、父子兄弟の間にも、猜疑心嫉妬心の多い結果で、他國には類稀なることかと思ふ。
 誰人も知る如く、支那では古來男女の別が嚴しい。禮に男女七歳にして席を同じくせずとか、男女は親しく授受せずとか、殆ど神經過敏と思はるる程の規定が多い。今より十年前まで、北京の動物苑や、保定の觀工場は、奇數の日は男の入觀すべき日、偶數の日は女の入觀すべき日と區別してあつた。この慣習も主として男子の猜疑心や嫉妬心の強い所に歸因するかと思ふ。支那歴代の後宮に宦官を使役する動機も亦、之と同一と視るべきであらう。宦官の弊害の顯著なるに拘らず、何れの時代――最近の民國時代を除き――でも之を廢止したことがなく、又その廢止を主張した學者すら殆ど見當らぬ。宋の司馬光や明の丘濬《キウシユン》や、明末清初の顧炎武・黄宗羲の如き、支那有數の政治學者ですら、宦官の弊を論ずるに當つては、ただその位置を低下せよとか、その員數を減少せよといふに止まり、更に進んで徹底的に宦官の廢止を要求して居らぬ。此の如きは一面『詩經』や『書經』に宦官のことを載せ、聖人も是認した制度であるから、廢止すべきでないといふ、例の尚古思想に囚はれる故でもあるが、一面猜疑心の強い支那人は、女子を監視するには、中性又は無性の宦官でなければ、安心出來ぬといふ心理状態に基くものと思ふ。
 三十餘年間南支那に布教した、米國宣教師のスミスが著はした『支那人氣質』中にも、支那人の猜疑心の深いことに就いて、幾多の例證を擧げてある。主人が奴僕の不埒を發見して之を叱責した時、若くは不埒の爲に之を解傭した時、その奴僕は彼の仲間が、彼の不埒を主人に密告したものと疑ひ、仲間に對して何かの方法によつて復讐を行ふが普通であるといふ。幾多の職工人夫を使役する時、その賃金は直接一人一人に支拂はねばならぬ。一纏として總代に渡し、總代の手より各自に分配せしむることは容易でない。彼等は中間に立つ總代が不正を行ふものと疑ふからである。此等の事實によつても、猜疑心の深い支那人の特質を察知し得るではないか。

         結語

 妥協性と猜疑心、これが實に支那人の二大痼疾である。この二大痼疾を剔去せねば、支那の改造は到底難事かと思ふ。妥協その者は必ずしも絶對に排斥すべきものではない。互讓の精神は如何なる場合にも寧ろ必要である。唯妥協にも互讓にも、主義や節操を忘れてはならぬ。支那人の如く主義や節操を放擲した妥協は苟合である。一時の苟合は却つて百年不安の種を播く。瓦全よりは玉碎、苟合よりは衝突の方が望ましい。孟子が抂[#レ]尺而直[#レ]尋ことを否定するのはこの故である。唐時代に兩面――『唐書』に見ゆ――といふ語がある。金時代に詭隨――『金史』に見ゆ――といふ語がある。何れも旗色のよき方に妥協して、反覆常なきをいふ。支那人は個人としても、團體としても、自己保全の方法として、好んでこの兩面詭隨を慣用するが、實に唾棄すべき所行と思ふ。猜疑の惡徳たることは殊更申述べる必要がない。
 治日少而亂日多とは支那人の常套語である。支那の歴史を見渡すと、いかにも太平の日が少い。上下四千載の歴史は、梅雨期の天氣の如く、陰鬱の影多くして光霽の趣に乏しい。支那人が黄金時代と誇稱する周ですら、太平の日は僅に五六十年に過ぎぬ。その他推して知るべしである。此の如きは妥協と猜疑の必然の結果でなからうか。征伐すべきものも、鎭壓すべきものも、すべて妥協によつて一時を糊塗するから、不安の原因は何時までも根絶せぬ。根絶せぬ不安の原因は、君臣同僚彼此の猜疑によつて一層増進する。梁啓超は曾て中國の積弱は防弊――官吏を猜疑すること――に由ると説破した。之にも半面の眞理はあるが、吾が輩はこれに苟合を加へ、中國の積弱宿弊は、多く支那人の妥協性と猜疑心とに本づくものと信じたい。
 近頃支那人の覺醒といふことが、新たに問題となつて來た。多くの論者は
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