ねばならぬ。無力なる君主は、或は願後身世世、勿[#三]復生[#二]天王家[#一]といひ(劉宋の順帝)、或は願自[#レ]今以往、不[#三]復生[#二]帝王家[#一]といひ(隋の恭帝)、極端なる恐迫觀念に戰《をのの》きつつ、危惧憂鬱なる一生を送る。有爲の君は、機會ある毎に宿將や權臣を殺戮して、身後の計を立てる。狡兔死、走狗烹。飛鳥盡、良弓藏。敵國破、謀臣亡と諺にある通り、支那の君臣は患難を共にすることが出來ても、富貴を共にすることが出來ぬ。漢の高祖は寛仁大度の君として世に聞えて居るが、その人すら韓信や彭越らの功臣は大抵殺害して仕舞つた。清人黄※[#「くさかんむり/辛」、第3水準1−90−88]田の詩に、漢家多少韓彭將、不[#レ]得[#二]銘旌一字看[#一]といふ句がある。高祖が功臣に對する恩情の薄きを惜んだものである。温和なる宋の太祖の如きは、巧言を以て宿將を説服して、權要の地を退隱せしめ、刻薄なる明の太祖の如きは、露骨に功臣を誅戮した。手段に寛嚴の相違はあつても、臣下を猜疑するといふ心理は、同一と認めねばならぬ。
六 支那人の猜疑心(二)
支那の政治や教育は、儒教を看板として居るけれど、その官制は法家の説に本づく所が多い。法家は人性を惡と豫斷して、之が警戒に重きを置く。法家の極意は、臣下同志をして相掣肘牽制せしめ、無力なる臣下をして、君權を脅かすことなからしむるに在る。法家の思想を繼承する支那歴代の官制は、官吏を信頼するよりも、むしろ官吏を猜疑すべく、官吏を利用するよりも、むしろ官吏を防弊すべく組織されて居る。例へば清朝の官制を一覽しても、官吏の非違を糾察する專門の都察院の外に、多くの官吏が彈劾權を賦與されて居る。かくて中央政府の大官に對して、地方長官が彈劾權を有し、地方長官の間に於て、總督は巡撫を、巡撫は總督を彈劾する權利を有してゐる。此の如く官吏をして相互に監視せしむる官制は、畢竟猜疑心の強い支那人の特質に相應せるものといはねばならぬ。
支那の官場には※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避といふ制度がある。地方官となるにも、その本籍所在地では就任が出來ぬ。中央官となるにも、その本籍地と直接の交渉多き官衙を避けねばならぬ。又親族關係の者は、同一官衙に奉職することが出來ぬ。科擧の場合にも、試驗官と親族の關係ある者は、その受驗を遠慮せなければならぬ。※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避の制度を立てた精神は、官吏がその親族知人と比周して私を營むべしといふ、上下の猜疑を避くるに在ること申す迄もない。※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避制度の嚴密なることは、支那人の猜疑心の深大なる證據と思ふ。
七 支那人の猜疑心(三)
支那の官吏は君主の猜疑と同僚の※[#「女+冒」、第4水準2−5−68]嫉の間に、一身の安全を圖るべく、われわれの想像以上の苦心を費す。賢哲保身とて、一身の安全を圖ることが、支那官吏處世の第一要義となつて居る。昔唐の宰相に婁師徳といふ名臣があつて、その弟も相當出世して地方長官となつた。かく兄弟倶に高位大官を占めては、君主同僚の嫌忌懼るべしとて、心配の餘り、婁師徳が懇々その弟に謙抑すべく注意を加へたに對して、弟が彼に向ひ、「自今雖[#三]有[#レ]人唾[#二]某面[#一]。某拭[#レ]之而已」と答へた時、婁師徳は眉を蹙めて、先方が吾面に吐き掛けた唾を、勝手に拭い取つては、却つて先方の怒を買ふものである。唾はその儘にして置いても、何時かは自然に乾く。笑顏の儘吐き掛けられた唾の乾くを待つべしと教へたといふ。支那官吏の苦心、實に慘憺たるものではないか。
同じく唐の大臣に蘇味道があつた。事を處するに常に模稜兩端を持し、決して明白なる意見を建てぬ。故に時人蘇模稜と稱したと傳へられて居るが、多少の差こそあれ、支那の官吏は大抵蘇模稜の流亞と思ふ。近代の曾國藩の如きも、拙進而巧退の五字を以て、官場成功の祕訣と申して居る。事實支那官場の如き猜疑百出の裡に立つて、一身の安全を期するには、積極よりは消極、活動よりは寧靜、革新よりは保舊をとる方が得策に相違ない。亢龍は悔があつても、括嚢には咎がない。猜疑心の強い支那人は、他人の爲すべきことには牽掣を加へて、自分の爲すべきことは推※[#「言+委」、読みは「い」、501−11]する。推※[#「言+委」、読みは「い」、501−12]と牽掣では一事も成功する筈がない。光緒三十一年(明治三十八)に、貝子載振が中國の官制改革を奏請した時に、推※[#「言+委」、読みは「い」、501−13]と牽掣を擧げて、中國官制の二大弊竇と指摘して居る。この二大弊竇は、畢竟支那人の猜疑心に由來するものと認めねばならぬ。
八 支那人の猜疑
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