心(四)

 支那は家族主義の國柄である。その家族の中心をなすべき父子の親といふことが、支那の國家や社會の基礎をなして居る。然るに支那の歴代を見渡すと、家を整へて天下の師表となるべき、天子と皇太子との間に存外不祥事多く、皇太子の終を全くせざる者が尠くない。畢竟皇太子の位置にあるものは、他の皇子から嫉妬され、天子から嫌忌され易い結果に外ならぬ。この歴代の弊に懲りて、清朝では、天子の生前に皇太子を册立せぬのを家憲とした。乾隆帝の作つた『欽定儲貳金鑑』に、委細にその理由を載せてある。かくて天子はその生前に、諸皇子の中で尤も聰明なる者の名を自署し、之を匣内に密封して、乾清宮内の世祖御筆の正大光明と題せる額後に藏して置く。天子の崩御の直後に、王大臣立會の上で、その匣を開きて、署名の皇子を位に即かしむるのである。之を清朝密建の法といふ。かかる制度を設置した一面の理由は、父子兄弟の間にも、猜疑心嫉妬心の多い結果で、他國には類稀なることかと思ふ。
 誰人も知る如く、支那では古來男女の別が嚴しい。禮に男女七歳にして席を同じくせずとか、男女は親しく授受せずとか、殆ど神經過敏と思はるる程の規定が多い。今より十年前まで、北京の動物苑や、保定の觀工場は、奇數の日は男の入觀すべき日、偶數の日は女の入觀すべき日と區別してあつた。この慣習も主として男子の猜疑心や嫉妬心の強い所に歸因するかと思ふ。支那歴代の後宮に宦官を使役する動機も亦、之と同一と視るべきであらう。宦官の弊害の顯著なるに拘らず、何れの時代――最近の民國時代を除き――でも之を廢止したことがなく、又その廢止を主張した學者すら殆ど見當らぬ。宋の司馬光や明の丘濬《キウシユン》や、明末清初の顧炎武・黄宗羲の如き、支那有數の政治學者ですら、宦官の弊を論ずるに當つては、ただその位置を低下せよとか、その員數を減少せよといふに止まり、更に進んで徹底的に宦官の廢止を要求して居らぬ。此の如きは一面『詩經』や『書經』に宦官のことを載せ、聖人も是認した制度であるから、廢止すべきでないといふ、例の尚古思想に囚はれる故でもあるが、一面猜疑心の強い支那人は、女子を監視するには、中性又は無性の宦官でなければ、安心出來ぬといふ心理状態に基くものと思ふ。
 三十餘年間南支那に布教した、米國宣教師のスミスが著はした『支那人氣質』中にも、支那人の猜疑心の深いことに就いて、幾多の例證を擧げてある。主人が奴僕の不埒を發見して之を叱責した時、若くは不埒の爲に之を解傭した時、その奴僕は彼の仲間が、彼の不埒を主人に密告したものと疑ひ、仲間に對して何かの方法によつて復讐を行ふが普通であるといふ。幾多の職工人夫を使役する時、その賃金は直接一人一人に支拂はねばならぬ。一纏として總代に渡し、總代の手より各自に分配せしむることは容易でない。彼等は中間に立つ總代が不正を行ふものと疑ふからである。此等の事實によつても、猜疑心の深い支那人の特質を察知し得るではないか。

         結語

 妥協性と猜疑心、これが實に支那人の二大痼疾である。この二大痼疾を剔去せねば、支那の改造は到底難事かと思ふ。妥協その者は必ずしも絶對に排斥すべきものではない。互讓の精神は如何なる場合にも寧ろ必要である。唯妥協にも互讓にも、主義や節操を忘れてはならぬ。支那人の如く主義や節操を放擲した妥協は苟合である。一時の苟合は却つて百年不安の種を播く。瓦全よりは玉碎、苟合よりは衝突の方が望ましい。孟子が抂[#レ]尺而直[#レ]尋ことを否定するのはこの故である。唐時代に兩面――『唐書』に見ゆ――といふ語がある。金時代に詭隨――『金史』に見ゆ――といふ語がある。何れも旗色のよき方に妥協して、反覆常なきをいふ。支那人は個人としても、團體としても、自己保全の方法として、好んでこの兩面詭隨を慣用するが、實に唾棄すべき所行と思ふ。猜疑の惡徳たることは殊更申述べる必要がない。
 治日少而亂日多とは支那人の常套語である。支那の歴史を見渡すと、いかにも太平の日が少い。上下四千載の歴史は、梅雨期の天氣の如く、陰鬱の影多くして光霽の趣に乏しい。支那人が黄金時代と誇稱する周ですら、太平の日は僅に五六十年に過ぎぬ。その他推して知るべしである。此の如きは妥協と猜疑の必然の結果でなからうか。征伐すべきものも、鎭壓すべきものも、すべて妥協によつて一時を糊塗するから、不安の原因は何時までも根絶せぬ。根絶せぬ不安の原因は、君臣同僚彼此の猜疑によつて一層増進する。梁啓超は曾て中國の積弱は防弊――官吏を猜疑すること――に由ると説破した。之にも半面の眞理はあるが、吾が輩はこれに苟合を加へ、中國の積弱宿弊は、多く支那人の妥協性と猜疑心とに本づくものと信じたい。
 近頃支那人の覺醒といふことが、新たに問題となつて來た。多くの論者は
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