の北京占領の時にも、北支那人は外國軍隊の前に順民の旗を掲げ、徳政の傘を獻じたではないか。絶えず異族の侵略に暴露さるる支那人には、此の如き態度は一つの必要なる處世法かも知れぬが、日本人などより觀れば、奇怪の念を禁ずることが出來ぬ。
 支那政府の態度も亦同樣である。絶えずその邊疆を剽掠し、又は侵略する北狄種族に對して、兵力を以て抵抗することを敢てせぬ。或は宗女を與へ、或は金帛を贈り、或は土地を割いて彼等の歡心を買ひ、彼等の掠奪を緩和するのが、歴代慣行の政策であつた。この妥協の犧牲となつて塞外に嫁する宗女を、唐時代には和蕃公主と稱した。宋以後は流石にこの和蕃公主を廢止したが、その代り一層惜氣もなく土地を割讓して居る。明治四十四年秋に、支那人(漢人)が革命を起して滿人(清朝)より獨立した時の檄文に、「漢人實耕、滿奴食[#レ]之。漢人實織、滿奴衣[#レ]之」と憤慨の辭を連ねてあるが、かかる事實は決して清朝時代に限つた譯でない。支那は二千餘年の古代から、無理横暴な北狄ともよく妥協して、彼等の寶藏金庫たることを我慢して居る。南北朝の末に出た突厥の君主の他鉢可汗は、「但使[#二]我在[#レ]南兩児(北齊と北周)常孝[#一]。何憂[#二]於貧[#一]」と公言して居る。北狄の君主は何時もこの他鉢可汗の心持をその儘、支那人の妥協癖を奇貨とし、之を威嚇して榮華を貪つて居る。
 西漢の初め匈奴が跋扈して支那政府がその處置に閉口した時、洛陽の才子として當代に聞えた賈誼が、その智嚢を傾けて對匈奴策を建てた。その對匈奴策とは、要するに五餌を以て匈奴を誘ふといふに過ぎぬ。五餌とは耳・目・口等の餌を設け、酒色や利禄で匈奴人の大部分を中國に誘致するをいふ。その一餌は盛裝せる幾十の美人をして、中國に來降せる匈奴人の左右に侍せしめ、匈奴人を肉團の捕虜にして仕舞ふのである。匈奴人好遇の噂を聞いては、塞外の匈奴人は先を競うて中國に投化すること疑ない。かくて匈奴の故土空虚とならば、中國の憂根絶ゆべしといふのが、一代の才子賈誼の對匈奴策の骨子である。
 之と似寄りの話が明時代にもある。明の萬暦年間に、支那政府は北方の韃靼の侵略に閉口して、その對抗策に腐心した時に、瞿九思《クキウシ》といふ學者が面白い建議をした。朔北に美人なきが故に、北虜は容易に故土を離れて敵地に侵掠するのである。若し閨室に美人あらば、彼等は之を見棄てて遠征を企つる筈がない。北虜制御策の祕訣は、朔北に美人を多くし、男子をして女色に惑溺せしむるに限る。就いては此際纏足――支那では纏足が美人の第一の資格と認められて居つた――を始め、その他一切の中國化粧法を朔北に傳へる。かくて朔北の婦人が柳腰蓮歩の美人となつたらば、さしもの北虜もこの可憐な美人に愛着して、往日の獰猛性を失ふに相違ないといふのが、瞿九思の建議の内容である。何と恐れ入つたる妙策ならずや。日本人から觀れば滑稽至極の此策略を、支那人の學者は眞面目に天子の御手許まで建議するのである。我が國でも黒船來航の當初、吉原あたりから似寄りの策略を幕府に獻議したといふが、これは北里の忘八輩の猿知慧に過ぎぬ。支那の如き一代の才子や著名の學者の眞面目な意見と、一樣に扱ふべきものでない。兔に角支那ではかかる笑ふべき妥協(?)對策の方が一般に氣受がよく、それ以上進んで積極的に塞外征伐など行ふと、兵を窮め武を涜すものとして、歡迎されぬのである。

         五 支那人の猜疑心(一)

 支那人は一般に猜疑心が深い。支那に「一人不[#レ]入[#レ]廟。二人不[#レ]看[#レ]井」といふ諺がある。一人で物淋しき寺廟に入らば、何時僧侶――支那で僧侶は多く惡徒と見做されて居る――の爲に人知れず殺害されるかも知れぬ。二人で井戸を俯瞰する際に、何時相手の爲に井底に突き落されて命を失ふかも知れぬ。かかる場合を警戒する諺で、之に由つても、支那人の猜疑心の強い一端を察知することが出來ると思ふ。又支那に『示我周行』といふ題目の旅行案内書がある。その開卷に旅客心得として、江湖十二則を掲げてあるが、概して盜賊・放馬《おひはぎ》・欺騙《かたり》・掏摸《すり》・拐騙《もちにげ》・偸換《すりかへ》等に對する注意に過ぎぬ。こは警察不行屆勝の支那に於ては、當然の注意であるが、同時に他人を泥棒視する、支那人根性の發露とも見受けられる。兔に角支那では、男女の間柄にも、同僚の交際にも、將た君臣父子の關係にも、常に猜疑といふ隱翳が附き纏うて居る。
 申す迄もなく支那は古來革命の國で、君臣の分定つて居らぬ。『左傳』に「君臣無[#二]常位[#一]。社稷無[#二]常奉[#一]」とある通り、今日の臣下も明日の君上となり得る國である。從つて支那の君主は、赤心を臣下の腹中に置くことが難い。絶えず臣下に對して猜疑警戒の眼を見張ら
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