ればならぬ。※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避の制度を立てた精神は、官吏がその親族知人と比周して私を營むべしといふ、上下の猜疑を避くるに在ること申す迄もない。※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]避制度の嚴密なることは、支那人の猜疑心の深大なる證據と思ふ。
七 支那人の猜疑心(三)
支那の官吏は君主の猜疑と同僚の※[#「女+冒」、第4水準2−5−68]嫉の間に、一身の安全を圖るべく、われわれの想像以上の苦心を費す。賢哲保身とて、一身の安全を圖ることが、支那官吏處世の第一要義となつて居る。昔唐の宰相に婁師徳といふ名臣があつて、その弟も相當出世して地方長官となつた。かく兄弟倶に高位大官を占めては、君主同僚の嫌忌懼るべしとて、心配の餘り、婁師徳が懇々その弟に謙抑すべく注意を加へたに對して、弟が彼に向ひ、「自今雖[#三]有[#レ]人唾[#二]某面[#一]。某拭[#レ]之而已」と答へた時、婁師徳は眉を蹙めて、先方が吾面に吐き掛けた唾を、勝手に拭い取つては、却つて先方の怒を買ふものである。唾はその儘にして置いても、何時かは自然に乾く。笑顏の儘吐き掛けられた唾の乾くを待つべしと教へたといふ。支那官吏の苦心、實に慘憺たるものではないか。
同じく唐の大臣に蘇味道があつた。事を處するに常に模稜兩端を持し、決して明白なる意見を建てぬ。故に時人蘇模稜と稱したと傳へられて居るが、多少の差こそあれ、支那の官吏は大抵蘇模稜の流亞と思ふ。近代の曾國藩の如きも、拙進而巧退の五字を以て、官場成功の祕訣と申して居る。事實支那官場の如き猜疑百出の裡に立つて、一身の安全を期するには、積極よりは消極、活動よりは寧靜、革新よりは保舊をとる方が得策に相違ない。亢龍は悔があつても、括嚢には咎がない。猜疑心の強い支那人は、他人の爲すべきことには牽掣を加へて、自分の爲すべきことは推※[#「言+委」、読みは「い」、501−11]する。推※[#「言+委」、読みは「い」、501−12]と牽掣では一事も成功する筈がない。光緒三十一年(明治三十八)に、貝子載振が中國の官制改革を奏請した時に、推※[#「言+委」、読みは「い」、501−13]と牽掣を擧げて、中國官制の二大弊竇と指摘して居る。この二大弊竇は、畢竟支那人の猜疑心に由來するものと認めねばならぬ。
八 支那人の猜疑
前へ
次へ
全11ページ中8ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング