努力によつて、偉人の位置に到達したのである。孔子の如く修養の效果の顯著なる人は、殆ど他に比類がなからう。この點が他の偉人とは立ち優つて、吾人の修養の手本として、尤も適當な人物と思ふ。
『論語』を見ても明白なる如く、孔子は絶えず努力して、年一年と進歩した人で、その進歩の順序も極めて規則正しく、宛《あたか》も學生が小學より中學、中學より高等學校、高等學校より大學と、年を追うて進級して行く面影があつて、誰人にでも眞似出來る樣な階級を歴て、層一層と人格を高めて居る。長い修養の間に、少しの不思議も奇蹟もない。孔子はその晩年に、一生の修養に就いて、「吾十有五而志[#二]于學[#一]。三十而立。四十而不[#レ]惑。五十而知[#二]天命[#一]。六十而耳順。七十而從[#二]心所[#一レ]欲不[#レ]踰[#レ]矩」(爲政篇)と申して居る。彼が老の將に至らんとするのも忘れて、晩年まで孜々として修養に努力せしことがわかる。世界の偉人の中で、孔子程修養に努力した人はあるまい。孔子は自ら「我非[#二]生而知[#レ]之者[#一]」(述而篇)というて、自身の生れながらにして偉人たることを否定し、修養によつて成功した平凡の偉人たることを自白して居る。後世の儒者らが孔子を尊崇する餘り、孔子を生知安行の聖人として、強いて凡人と區別せんとするのは、不心得千萬と申さねばならぬ。殊に近年公羊學を唱ふる輩が、孔子に種々の奇蹟を附會し、之を豫言者扱せんとするは、實に孔子を誣ひ、孔子を賊するものと申さねばならぬ。
(第三) 孔子の人格は頗る圓滿である。『論語』に子貢が孔子を評して、「温・良・恭・儉・讓」(學而篇)とあるが、尤もよく孔子の人格を描出して居ると思ふ。又『論語』に「子絶[#レ]四。毋[#レ]意。毋[#レ]必。毋[#レ]固。毋[#レ]我」(子罕篇)とある通り、孔子は決して我見を固執せぬ。彼の言行は終始中庸で、極端や過激がない。從つて危險もなければ弊害も尠ない。
此の如く孔子は圓滿なる人格を具へ、言行中庸を失せぬから、彼はその一生を通じて、殆ど他から迫害を受けたことがない。彼は一生不遇ではあつたが、その學説その言行は、當時の人から一般に尊敬されて、決して迫害を受けなかつた。桓※[#「鬼+隹」、第4水準2−93−32]の難や、陳・蔡の厄など傳へられて居るが、之は例外の出來事で、又その實情も明白でない。ただにその當時許りでなく、後世になつても、孔子は殆ど非難されたことがない。儒教に反對する人々でも、孔子には反對せぬ。世界の偉人の中でも、孔子の如く非難反對の尠ない人は稀有と思ふ。我が徳川時代の中世以後に國學が勃興して、所謂日本主義が流行すると共に、あらゆる支那文化に反對することになつた。中にも本居宣長や平田篤胤らは、儒教を攻撃して餘力を遺さず、儒教の所謂聖人といふ聖人に、思ひ切つた罵倒を浴せて居る。併し流石に孔子だけは非難せぬ。或は非難出來なかつたかも知れぬ。兔に角支那嫌ひの國學者達も、孔子だけは何等非難を加へざるのみならず、却つて譽め切つて居る。本居は、
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聖人と人はいへども、聖人の類ならめや、孔子はよき人。
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と詠んで居る。惡口黨の旗頭の平田すら、孔子は心も行も我が師翁其儘だと推服して居る。
(第四) 孔子は今より二千四百年前の古代に生存せしに拘らず、彼の日常生活の有樣は、不思議にも委細に今日に傳つて居る。『論語』を見ると、孔子その人を目《ま》の邊《あたり》に見る樣な心地がせられ、殊にその郷黨篇には、飮食より坐臥に至る迄、孔子の生活状態を描き出して殆ど遺憾がない。「食不[#レ]語。寢不[#レ]言」とか、「立不[#レ]中[#レ]門。行不[#レ]履[#レ]閾」とか、必ずしも大聖孔子の行爲として、殊に表出するに當らぬ程の平凡な記事が疊見して居る。かかる飾氣のない僞らざる、古代の偉人の日常生活状態の今日に傳はるのは、孔子に限つたことで、之も亦吾人修養の手本として、孔子が他の偉人に勝つて居る點と思ふ。
要するに孔子は平凡なる偉人たる點、修養によつて向上した經路の尤も明かなる點、人格の圓滿なる點、日常生活の尤も詳細に、又尤も飾氣なく傳はれる點、殊にその終始人間離れをせぬ點、此等の諸點で、他の世界の偉人達と相違して居り、同時に吾人の修養の手本として、尤も適當なる所以と思ふ。吾々の如き平凡な人間でも、努力して修養さへすれば、別段奇蹟の如き筋道を辿らずとも、孔子の樣な位置にまで向上進歩することが出來るといふ、眞實の手本を示す點が、確に孔子に限つた特色である。
四 諸葛亮(上)
支那史上の偉人として、私は第一に孔子を擧げ、第二に始皇帝、第三に張騫を紹介したが、始皇帝の事蹟は、已に大正二年一月の『新日本』に載せてあり、又張騫の事蹟も、大正五年二月發行の『續史的研究』中に掲げてあるから(本全集第三卷所收)、茲には始皇帝と張騫との事蹟を掲載することを省略して、直に第四の諸葛亮、即ち諸葛孔明の事蹟を紹介する。
一體支那人には表裏が多い。看板と實際とは大抵一致せぬ。彼國の梁啓超の如きも、支那通有の一缺點として、好僞を擧げて居る。古來有名な支那の政治家や軍人を見渡しても、心と口と、口と行とは、別々となつて居て、人の反感をそそる樣な人物が多い。この間に在つて、獨り諸葛亮のみは至誠一貫して、その行動に一點の不純をも認めぬ。誰人と雖ども諸葛亮には深厚なる同情を起し、又誰人でも諸葛亮からは至大なる教訓を受けることが出來る。從つて古來人物評をする學者の中に、殆ど一人も諸葛亮を非難した者がない。机上の書生論で、隨分吹[#レ]毛求[#レ]瘢的の評論を好む宋の儒者でも、諸葛亮だけは大抵は無條件で奬推する。張拭(南軒)や朱子の如き、皆彼を推して三代以後の第一人者とする。支那人嫌ひで有名な平田篤胤の如きも、諸葛亮に對しては、最上級の贊辭を惜まぬ。
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此人生涯の行は、唐人ながら篤胤實に間然すること能はず。孔子の後たつた一人の人と思はる。……諸越人の言に、孔子以前無[#二]孔子[#一]。孔子以後無[#二]孔子[#一]といつたが、篤胤は孔子以後唯有[#二]孔明[#一]と思はるることで御座る(『西籍概論』卷三)。
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さて諸葛亮は字は孔明といふ。瑯邪陽都人といふから、今の山東省沂水縣附近に生れたのである。彼の兄の諸葛瑾は、後に呉に仕へて大臣となり、徳行の高き人で、呉主の孫權に信任せられたこと、殆ど劉備と孔明の如き有樣であつた。諸葛亮は東漢の靈帝の光和四年(西暦一八一)に生れた。早く父を喪ひ、從父の諸葛玄の保護を受けた。その從父が荊州牧劉表の許に世話になつたから、自然諸葛亮も亦荊州に住むこととなつた。やがて從父の死後、彼は襄陽附近の田舍に退隱した。丁度その頃劉備が曹操の爲に逐はれて、荊州の劉表の許に身を託したから、茲に兩人接近の機會が出來た。かの有名なる草廬三顧は、獻帝の建安十二年(西暦二〇七)即ち孔明の二十七歳の時の出來事である。この時孔明は早く已に天下三分の計畫を定めた。曹操は最早天下の十の七を手に入れ、兵士も多く物資も豐で、到底正面から之に抵抗し難い。孫權は東南の地に據り、父兄三代の基礎堅ければ、之を味方に利用して、巴蜀の方面に新に立脚地を求めねばならぬといふのである。
所が時局が豫期以上に切迫して、その翌年に曹操が荊州に侵入すると同時に、劉表は病死した爲、荊州は一旦曹操の手に歸する。劉備は殆ど身を容るるに所なく、難を南に避けて、救を孫權に求めることとなつた。この時劉備の使者となつて、孫權を説服に出掛けたのが孔明である。孔明が首尾よく孫權を説服して、味方に引き入れた結果として、有名な赤壁の戰が起つた。この赤壁は今の湖北省の嘉魚縣附近で、夏口(漢口)の上流に當る。蘇東坡の赤壁賦の赤壁は夏口より下流で、今の湖北省の黄岡縣に當る。故に蘇東坡は西望[#二]夏口[#一]と記して居る。三國時代の赤壁なら、西望[#二]夏口[#一]でなく、東望[#二]夏口[#一]でなくてはならぬ。東坡が歴史地理に暗くして誤を傳へて以來、黄岡縣の赤壁が普通に古戰場として認めらるる樣になつた。さてこの赤壁の戰に曹操が失敗して、南支那併合の機を失すると共に、孫權は揚子江中流以下の南支那を占領し、劉備はやや後くれて、建安十九年(西暦二一四)に江を溯りて巴蜀をとり、かくて天下が三分して、魏・蜀・呉三國鼎立の姿となつた。
劉備は蜀を占領して國を建てたが、その整理がつかぬ中に、西暦二百二十三年に世を辭し、十七歳の劉禪がその後を承けた。劉禪は年も弱《わか》し、質も凡庸であつたから、劉備の遺命を受け、後事を託された、孔明の苦勞は並々でない。丁度この時四十三歳になつた孔明は、丞相として一國の政治を統べ、又益州牧を兼ねて親しく地方行政に當り、又その以前から司隷校尉をも兼ねた。一口に申せば、彼一人で總理大臣、東京府知事、警視總監を兼務するので、その多忙なること設想以上である。殊に責任感の強い彼は、決して職務を忽にせぬ。罰二十以上皆親覽といふ有樣で、多忙以上の多忙を極めた。やがて蜀が南征北伐と軍を出す時には、孔明が必ず軍を統率したから、陸軍大臣に司令長官の職を兼ねた譯である。從つて孔明は文字通りに寢食の暇がなかつた。之に就いて當時心ある者は孔明の過勞を諫めた事もある。されど孔明がかく多忙を極めねばならぬ已むを得ざる事情があつた。即ち蜀には文武の人材が痛く缺乏して居つた。孔明一人は太陽の如く輝いて居るが、その以外の人物は誠に寥々である。軍事には關羽・張飛・趙雲があつたが、關羽や張飛は早く非命に斃れ、趙雲一人は生存したが、之も久しからずして世を辭し、その以後には名ある大將は殆ど存在せぬ。文官の方は一層淋しい。魏は流石に中原を領して、人物雲の如くにある。呉も早く東南に據つて、相當人物も集つた。獨り劉備は久しく流浪生活を營んだ爲、人物を招致する機會を失つた。最後に蜀に根據地が出來たが、邊鄙で人物に乏しい。孔明一人が特に傑出して居つたのと、その他に人物がなかつたのと、この二理由が、勢ひ孔明をして多忙過勞に陷らしめたのである。
五 諸葛亮(中)
蜀の内治が略整理がつくと、孔明は西暦二百二十七年に、始めて魏を伐つべく出征する。この時劉禪に上つたのが、かの前出師表で、所謂鬼神をも泣かしむると評さるる程の名文である。字句に何等の技巧はないが、全篇赤心の結晶である。爾來孔明は七年の間、その死に至る間際まで、餘事を擲つて再三再四出征を續けたが、蜀から魏へ出征するには、軍糧運搬に想像以上の困難があるのと、又孔明の計畫を實行するだけの大將が不足した等の原因で、十分の成功を見得ぬ間に、彼は出征の軍中で病死した。そは西暦二百三十四年で、彼の五十四歳の時であつた。今少しく彼に年を假さばとは、誰人にも起る同情である。
一體魏を征伐することは、可なり困難な事業であつた。當時魏の口數は四百五十萬、蜀の口數は九十萬で、蜀の魏を伐つのは、兵力・資力五倍以上の敵を相手とする譯である。當時から痛く孔明の計畫に反對した人もあつた。孔明自身もよくその困難を承知して居つた。故に彼の後出師表に、
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漢賊不[#二]兩立[#一]。王業不[#二]偏安[#一]。……然不[#レ]伐[#レ]賊。王業亦亡。惟坐待[#レ]亡。孰[#二]與伐[#一レ]之。……臣受[#レ]命之日。寢不[#レ]安[#レ]席。食不[#レ]甘[#レ]味。思[#二]惟北征[#一]。……臣鞠躬盡[#レ]力。死而後已。至[#二]於成敗利鈍[#一]。非[#三]臣之明。所[#二]能逆覩[#一]也。
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と述べて居る。然らば何が故にその困難を冒して北征を續けたか。それには強い理由がある。漢は東西を通じて、天下に君臨すること四百年に達し、その餘澤は深く人心に浸潤して居る。劉備は漢の疎屬として、世人の彼に漢の再興を期待するもの多く、劉備も亦漢の再興を標榜した。故に漢祚を簒奪し
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