支那史上の偉人(孔子と孔明)
桑原隲藏
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(例)四十曰[#レ]強而仕
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私は今後六囘に亙つて此の題目の下に、過去の支那に現はれた四人の大人物、即ち孔子・始皇帝・張騫・諸葛亮四人の事蹟を紹介せうと欲《おも》ふ。今日は民衆萬能の時代で、最早偉人英雄の時代でない。今更偉人などを擔ぎ出すのは、時代錯誤かも知れぬ。併しカーライルもいへる如く、世界の歴史は畢竟偉人の歴史に過ぎぬ。過去の歴史から偉人の事業・功績を除き去れば、實に寂寥たるものである。殊に支那の如き國柄――支那人の理想的政治論に從へば、第一番の大人物が天子となり、その次の人物が大臣となりて人民を指導し、人民は無條件にその指導に從ふのが義務と認められてゐる――では、偉人の勢力が尤も大に、影響が尤も廣い。支那では一國一人を以て興り、一人を以て亡ぶといふ程で、一代の興亡は、その時代に偉人の有無に據つて決定するかの如く、それ程偉人の位置が重い。その時代の偉人の事蹟を調べると、その時代の歴史の大半を了解することが出來る。今日の支那の現状を見ては、愛想も盡きるが、過去の支那には、中々多くの偉人が出て居る。それ等の偉人の事蹟は、何かの點に於て吾人修養の手本にもなれば、同時に支那に於ける文化發展の記念碑とも認めることが出來ると思ふ。
一 孔子(上)
第一番に紹介すべきは孔子である。孔子の事蹟は餘りに廣く世間に知れ渡つて居つて、態※[#二の字点、1−2−22]茲に紹介するに及ばぬかと思ふ。併し支那の偉人の中に、決して孔子を逸する事が出來ぬ。それで簡單に申述べたい。委細の事蹟は、清の崔述の『洙泗考信録』や、我が蟹江博士の『孔子研究』等に讓つて、二三の注意すべき事蹟を紹介いたさうと思ふ。
孔子は元來殷の後で、宋の公族の裔である。孔子の出生より百數十年前に、孔子の祖先は或る事情に餘儀なくされて、宋を去り魯に移つた故、孔子の一家は魯の人となつたのである。孔子の祖先の中には、或は忠義の人、或は道徳高き人、學問ある人、勇力ある人など多く輩出して居る。その家から孔子の如き聖人の生れたのも、偶然であるまい。孔子の出生は、普通に『史記』に據つて、魯の襄公二十二年(西紀前五五一)となつて居るが、之は『公羊傳』や『穀梁傳』に據つて、襄公の二十一年の出生とする方が正しい。哀公の十六年(西紀前四七九)に、七十四歳で世を辭されたのである。
孔子の生誕地は『史記』によると、魯の昌平郷陬邑である。大體に於て今の山東省の曲阜縣の文廟の所在地に當るといふ。『孔子家語』によると、孔子の父の叔梁※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89](或は陬梁※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89])は、孔子の三歳の時に歿して居る。兔に角孔子が早くその父を喪つて、母の手に養はれたことは疑ひない。世界の偉人の傳記を調べると、釋迦も降誕と同時にその母を喪ひ、マホメットは更に不幸で、母の胎内に在る頃にその父を喪ひ、七歳の時にその母にも別れ、伯父の家に養はれた。耶蘇も又早くその父と別れて居る。兩親や片親を喪つた子供は不幸に相違ないが、この不幸者の中から、存外世界の大偉人が現はれて居るといふことも、注意に價する事實と思ふ。
孔子の少時は貧乏に追はれて、可なり生活に苦勞されて居る。この貧苦の間に在つてよく勉學された。一體支那の古代では、四十歳迄は修養の時代で、四十歳前後から仕官するが普通であつた。『禮記』の曲禮にも、四十曰[#レ]強而仕とある。然るに孔子の四十歳前後は、生憎魯國の内亂時代で、魯の君昭公は三桓の爲に放逐せられて、他國に流浪すること七八年に及ぶ。孔子の仕官し得る時機でない。昭公が外國で薨じ、その弟の定公が三桓に擁立されて魯の君となると、間もなく孔子は魯の國に登庸さるることとなつた。孔子の五十歳前後のことと思はれる。
孔子は魯に用ゐらるると、その内治・外交二方面に亙つて、相當に著しい成績を擧げた。外交に於ては絶えず魯を脅迫した、隣國の齊に對して、その不當な要求を斥け、獨立國としての魯の面目をよく保持した。
魯の内治の弊竇は、公族の三桓が政權を握り、國君は虚位を擁して、所謂尾大振はずといふ點にあつた。孔子はこの歴代の弊竇を除去すべく、三桓の諒解を求めて、その權勢を抑制する計畫を實行したが、その計畫成るになんなんとして、一部の反對に遇ひ、九仭の功を一簣に缺くこととなつた。その内政上の蹉躓が原因となつて、孔子は定公の十三年(西紀前四九七)に、魯の政界から退いた。
志を魯に絶つた孔子は、その生國を去り、天下を周遊すること十三四年に及んだが、矢張り志を得なかつた。そこで魯に歸つて茲に晩年を送つた。孔子の一生を通覽すると、大約左の三期に區別することが出來る。
(一) 五十歳頃までは修養に努めて、政治家として世に立つべき機會を待つた時代。
(二) 五十歳頃より六十八歳頃までは、政治家として世に立ち、若くば政治家として世に出づべく、天下を周遊した時代。
(三) 六十八歳頃以後は政界に望を絶ち、その道を後世に傳へる準備をした時代。
『論語』述而篇に甚矣吾衰也、久矣吾不[#三]復夢見[#二]周公[#一]也とあるのは、政治家として周公の禮政を復活せんとした、彼の素志の到底現實し難きを自覺せし時の失望の聲で、恐らくは彼が望を政界に絶つた當時に發したものと想はれる。
二 孔子(中)
さて孔子が志を政界に絶つて、身後の用意に着手したが、その用意とは、畢竟著述と弟子養成との二途に過ぎぬ。『史記』に據ると、今日傳ふる所の五經、即ち書經・詩經・易・禮・春秋は、皆孔子が筆削したことになる。之には多少の異説もあるが、兔に角一般にはしかく信ぜられてゐる。もし孔子が政界に志を得て、國務に鞅掌して居つたら、或は著述の餘暇に乏しく、從つて經書を十分に筆削し得なかつたかも知れぬ。この點から觀ると、孔子が政治家として不遇であつたことが、かへつて經書の爲に祝福すべきかと思ふ。
弟子養成のことは、孔子は三十而立、四十不[#レ]惑といふ程に、早く修養が出來て居るから、四十歳前後から已に若干の弟子はあつたであらう。併し專心に弟子の養成に努力したのは、その晩年のことと思はれる。
孔子には七十二弟子とて高弟が七十二人ある。その七十二人の年齡の判明せるものは、『史記』に據ると二十三人程ある。その二十三人の年齡を調べて見ると、孔子より非常に若い者が多い。左表を參考されたい。
[#ここから2字下げ、底本では表組み]
孔子より一歳乃至九歳若きもの 一人
孔子より十歳乃至十九歳若きもの 二人
孔子より二十歳乃至二十九歳若きもの 三人
孔子より三十歳乃至三十九歳若きもの 六人
孔子より四十歳乃至四十九歳若きもの 七人
孔子より五十歳乃至五十九歳若きもの 四人
[#ここで字下げ終わり]
殊に孔門の弟子中で、尤も後世に名の聞えたる顏囘は、孔子より若きこと三十歳、子貢は三十一歳、子夏は四十四歳、子游は四十五歳、曾參は四十六歳、子張は四十八歳である。この事實は、孔子が比較的晩年に多くの弟子を養成した、一つの證據に供することが出來る。
濟々たる孔門の諸弟子中、尤も傑出したのは、申す迄もなく顏囘字は子淵である。彼が孔門第一の人物として、他の諸弟子達と夐然隔絶して居つたことは、『論語』を一讀すれば容易に理會することが出來る。孔子も頗る顏囘を推賞して居る。孔門の諸弟子の中で、子貢は才學を以て世間に聞え、當時の一部の人達からは、その師の孔子以上とさへ評判された人である。その子貢に孔子が子貢自身と顏囘との優劣を尋ねられた時に、子貢は答へて、
[#ここから2字下げ]
賜(子貢)也何敢望[#レ]囘。囘也聞[#レ]一以知[#レ]十。賜也聞[#レ]一以知[#レ]二。
[#ここで字下げ終わり]
といひ、之に對して孔子が、
[#ここから2字下げ]
弗[#レ]如也。吾與[#レ]女弗[#レ]如也。
[#ここで字下げ終わり]
と評したことが、『論語』の公冶長篇に見えて居る。之に據つても顏囘が天資聰明の人で、孔子及び諸弟子から天才を以て遇せられたことがわかる。しかのみならず彼と孔子とは、名は師弟にして情は父子の如く、孔子も「囘也視[#レ]予猶[#レ]父也」(先進篇)と申されて居る。孔子が天下周游中に、さる地方で遭難されて、顏囘と離れ離れとなつた。孔子は顏囘が死んだのではないかと、一時非常に心配されたが、間もなく安全に一行に加はつた顏囘は、孔子の心配を謝して、「子在。囘何敢死」(先進篇)と申して居る。殆ど生死を共にする迄許し合つた間柄といはねばならぬ。孔子がこの顏囘に多大の望を屬し、自分の死後その主義を後世に傳へ、若くはその抱負を世間に行ふに就いて、この人を第一の後繼者と目指して居つたのは申す迄もない。所がこの顏囘が不幸にして短命で、孔子に先だつて世を辭した。
顏囘の死んだ年代は分明でない。ただ孔子の晩年に當ることは疑を容れぬ。多分孔子の七十歳の頃かと想はれる。かねて顏囘に多大の望を掛けただけ、彼の辭世に對して、孔子は氣の毒な程落膽せられ、「噫天喪[#レ]予。天喪[#レ]予」(先進篇)とさへ嘆息されて居る。又孔子が顏囘の家に往弔した時、平素悲喜ともに節を踰えぬ孔子には似合はず、諸弟子の驚き怪む程激しく慟哭して、「非[#二]夫人之爲[#一レ]慟而誰爲」(先進篇)とさへ極言されて居る。この後ち魯の君哀公や魯の大臣の季康子に、我が弟子のことを聞かれた時、孔子は何れにも、
[#ここから2字下げ]
有[#二]顏囘者[#一]………不幸短命死矣。今也則亡(先進篇・雍也篇)
[#ここで字下げ終わり]
と對へてゐる。孔子がいつまでも顏囘を忘れ得なかつたことがわかる。孔子の生涯の中に、この顏囘の死んだ時ほど氣の毒に思はれる時はない。孔子の晩年は極めて不幸であつた。顏囘と前後してその實子の鯉(伯魚)を喪ひ、また愛弟子の一人なる子路も衞の國難に死んだ。しかし顏囘の死は孔子にとつて第一の不幸で、これが爲に孔子の身神に大なる痛手を受けたこと想像するに餘ある。かくて顏囘の死後三四年にして、我が孔子も世を辭された。孔子の墓は今の山東省の曲阜縣の北郊約十四五町ばかりの孔林の中に在る。孔林とは孔子を始め、その一族の墓地である。
三 孔子(下)
最後に孔子の人格について一言を申し添へたい。私は先年『斯文』といふ雜誌の孔子追遠號に、孔子の人格に關する私見を披瀝して置いたから、之を抄録して茲にその大要を紹介する。
(第一) 孔子の一生は平凡である。その經歴も平凡で奇蹟がなく、その學説も平凡で豫言がない。他の精神界の偉人には、釋迦でも、キリストでも、マホメットでも、皆奇蹟や豫言が伴つて居る。彼等は或時期に、人界から神界に移つて居る。人界を超越して居れば居る程、彼等を直ちに人間修養の手本となし難い。獨り孔子のみは終始人界を離れず、人間を以て始まり、人間を以て終つた。孔子はその偉人たる點に於て、釋迦やキリストや、マホメットに一歩も讓らぬであらうが、その經歴やその學説は、やや平凡を免れぬ。平凡の偉人といふのが、孔子の特色であらう。支那經典の英譯者として、又オクスフォード大學に於ける支那學講座擔任の最初の教授として名高いレッグは、曾て孔子を評して、
[#ここから2字下げ]
公平の立場から觀て、孔子の性格にも學説にも、偉人の面影を見出し難い。
[#ここで字下げ終わり]
と申して居る。レッグの評は勿論間違つて居るが、その間違ひの裡にも、平凡の偉人たる孔子の面目が現はれて居ると思ふ。
(第二) 上述の如く孔子は大體に於て平凡で、ただ不斷の
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