四人
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 殊に孔門の弟子中で、尤も後世に名の聞えたる顏囘は、孔子より若きこと三十歳、子貢は三十一歳、子夏は四十四歳、子游は四十五歳、曾參は四十六歳、子張は四十八歳である。この事實は、孔子が比較的晩年に多くの弟子を養成した、一つの證據に供することが出來る。
 濟々たる孔門の諸弟子中、尤も傑出したのは、申す迄もなく顏囘字は子淵である。彼が孔門第一の人物として、他の諸弟子達と夐然隔絶して居つたことは、『論語』を一讀すれば容易に理會することが出來る。孔子も頗る顏囘を推賞して居る。孔門の諸弟子の中で、子貢は才學を以て世間に聞え、當時の一部の人達からは、その師の孔子以上とさへ評判された人である。その子貢に孔子が子貢自身と顏囘との優劣を尋ねられた時に、子貢は答へて、
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賜(子貢)也何敢望[#レ]囘。囘也聞[#レ]一以知[#レ]十。賜也聞[#レ]一以知[#レ]二。
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といひ、之に對して孔子が、
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弗[#レ]如也。吾與[#レ]女弗[#レ]如也。
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と評したことが、『論語』の公冶長篇に見えて居る。之に據つても顏囘が天資聰明の人で、孔子及び諸弟子から天才を以て遇せられたことがわかる。しかのみならず彼と孔子とは、名は師弟にして情は父子の如く、孔子も「囘也視[#レ]予猶[#レ]父也」(先進篇)と申されて居る。孔子が天下周游中に、さる地方で遭難されて、顏囘と離れ離れとなつた。孔子は顏囘が死んだのではないかと、一時非常に心配されたが、間もなく安全に一行に加はつた顏囘は、孔子の心配を謝して、「子在。囘何敢死」(先進篇)と申して居る。殆ど生死を共にする迄許し合つた間柄といはねばならぬ。孔子がこの顏囘に多大の望を屬し、自分の死後その主義を後世に傳へ、若くはその抱負を世間に行ふに就いて、この人を第一の後繼者と目指して居つたのは申す迄もない。所がこの顏囘が不幸にして短命で、孔子に先だつて世を辭した。
 顏囘の死んだ年代は分明でない。ただ孔子の晩年に當ることは疑を容れぬ。多分孔子の七十歳の頃かと想はれる。かねて顏囘に多大の望を掛けただけ、彼の辭世に對して、孔子は氣の毒な程落膽せられ、「噫天喪[#レ]予。天喪[#レ]予」(先進篇)とさへ嘆息されて居る。又孔子が顏囘の家に往弔した時、平素悲喜とも
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