。その内政上の蹉躓が原因となつて、孔子は定公の十三年(西紀前四九七)に、魯の政界から退いた。
志を魯に絶つた孔子は、その生國を去り、天下を周遊すること十三四年に及んだが、矢張り志を得なかつた。そこで魯に歸つて茲に晩年を送つた。孔子の一生を通覽すると、大約左の三期に區別することが出來る。
(一) 五十歳頃までは修養に努めて、政治家として世に立つべき機會を待つた時代。
(二) 五十歳頃より六十八歳頃までは、政治家として世に立ち、若くば政治家として世に出づべく、天下を周遊した時代。
(三) 六十八歳頃以後は政界に望を絶ち、その道を後世に傳へる準備をした時代。
『論語』述而篇に甚矣吾衰也、久矣吾不[#三]復夢見[#二]周公[#一]也とあるのは、政治家として周公の禮政を復活せんとした、彼の素志の到底現實し難きを自覺せし時の失望の聲で、恐らくは彼が望を政界に絶つた當時に發したものと想はれる。
二 孔子(中)
さて孔子が志を政界に絶つて、身後の用意に着手したが、その用意とは、畢竟著述と弟子養成との二途に過ぎぬ。『史記』に據ると、今日傳ふる所の五經、即ち書經・詩經・易・禮・春秋は、皆孔子が筆削したことになる。之には多少の異説もあるが、兔に角一般にはしかく信ぜられてゐる。もし孔子が政界に志を得て、國務に鞅掌して居つたら、或は著述の餘暇に乏しく、從つて經書を十分に筆削し得なかつたかも知れぬ。この點から觀ると、孔子が政治家として不遇であつたことが、かへつて經書の爲に祝福すべきかと思ふ。
弟子養成のことは、孔子は三十而立、四十不[#レ]惑といふ程に、早く修養が出來て居るから、四十歳前後から已に若干の弟子はあつたであらう。併し專心に弟子の養成に努力したのは、その晩年のことと思はれる。
孔子には七十二弟子とて高弟が七十二人ある。その七十二人の年齡の判明せるものは、『史記』に據ると二十三人程ある。その二十三人の年齡を調べて見ると、孔子より非常に若い者が多い。左表を參考されたい。
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孔子より一歳乃至九歳若きもの 一人
孔子より十歳乃至十九歳若きもの 二人
孔子より二十歳乃至二十九歳若きもの 三人
孔子より三十歳乃至三十九歳若きもの 六人
孔子より四十歳乃至四十九歳若きもの 七人
孔子より五十歳乃至五十九歳若きもの
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