には、或は忠義の人、或は道徳高き人、學問ある人、勇力ある人など多く輩出して居る。その家から孔子の如き聖人の生れたのも、偶然であるまい。孔子の出生は、普通に『史記』に據つて、魯の襄公二十二年(西紀前五五一)となつて居るが、之は『公羊傳』や『穀梁傳』に據つて、襄公の二十一年の出生とする方が正しい。哀公の十六年(西紀前四七九)に、七十四歳で世を辭されたのである。
 孔子の生誕地は『史記』によると、魯の昌平郷陬邑である。大體に於て今の山東省の曲阜縣の文廟の所在地に當るといふ。『孔子家語』によると、孔子の父の叔梁※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89](或は陬梁※[#「糸+乞」、第3水準1−89−89])は、孔子の三歳の時に歿して居る。兔に角孔子が早くその父を喪つて、母の手に養はれたことは疑ひない。世界の偉人の傳記を調べると、釋迦も降誕と同時にその母を喪ひ、マホメットは更に不幸で、母の胎内に在る頃にその父を喪ひ、七歳の時にその母にも別れ、伯父の家に養はれた。耶蘇も又早くその父と別れて居る。兩親や片親を喪つた子供は不幸に相違ないが、この不幸者の中から、存外世界の大偉人が現はれて居るといふことも、注意に價する事實と思ふ。
 孔子の少時は貧乏に追はれて、可なり生活に苦勞されて居る。この貧苦の間に在つてよく勉學された。一體支那の古代では、四十歳迄は修養の時代で、四十歳前後から仕官するが普通であつた。『禮記』の曲禮にも、四十曰[#レ]強而仕とある。然るに孔子の四十歳前後は、生憎魯國の内亂時代で、魯の君昭公は三桓の爲に放逐せられて、他國に流浪すること七八年に及ぶ。孔子の仕官し得る時機でない。昭公が外國で薨じ、その弟の定公が三桓に擁立されて魯の君となると、間もなく孔子は魯の國に登庸さるることとなつた。孔子の五十歳前後のことと思はれる。
 孔子は魯に用ゐらるると、その内治・外交二方面に亙つて、相當に著しい成績を擧げた。外交に於ては絶えず魯を脅迫した、隣國の齊に對して、その不當な要求を斥け、獨立國としての魯の面目をよく保持した。
 魯の内治の弊竇は、公族の三桓が政權を握り、國君は虚位を擁して、所謂尾大振はずといふ點にあつた。孔子はこの歴代の弊竇を除去すべく、三桓の諒解を求めて、その權勢を抑制する計畫を實行したが、その計畫成るになんなんとして、一部の反對に遇ひ、九仭の功を一簣に缺くこととなつた
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