れる漢の高祖すら、その功臣を殺戮して、身の安全を圖るといふ有樣である。所が獨り劉備と孔明との間は、水魚その儘であつた。こは劉備の至徳にもよるが、同時に孔明の誠忠にもよることと思ふ。
それよりも一層感心に堪へぬのは、劉禪と孔明との關係である。劉備がその死に臨み、孔明に後事を託した時に、「嗣子可[#レ]輔輔[#レ]之。如《モシ》其不可。君可[#二]自取[#一]」といひ、又劉禪に對しては、汝事[#二]丞相[#一](孔明)如[#レ]父と申渡して居る。劉禪時代に蜀の全權は、孔明一人の手に歸した。支那の國情では、かかる場合に權臣が臣節を完くすることが甚だ六ケ敷い。權臣自身は臣節を完くする積りでも、その周圍の者が許さぬ。北宋の太祖がその近衞の大將の石守信に對して、「麾下欲[#二]富貴[#一]。一旦有[#下]以[#二]黄袍[#一]加[#中]汝身[#上]。汝雖[#レ]欲[#レ]不[#レ]爲。其可[#レ]得乎」と警戒したのは、支那の國情から觀て無理ならぬ警戒である。所謂主幼にして國疑ふ時代には、聖人と仰がれる周公すら、野心ありと流言を立てられたでないか。白樂天のいはゆる周公恐懼流言日とはそれである。然るに孔明に對しては、一度もかかる惡評が立たなかつた。かかる場合に處して、完全に臣節を盡し得た者は、支那では古今殆ど孔明一人と申してもよい位である。之が孔明の至誠忠義の人たる結果に外ならぬ。
(※[#ローマ数字2、1−13−22])公平無私
『三國志』の著者陳壽は、孔明の政治振に就いて、次の如く評して居る。
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諸葛亮之爲[#二]相國[#一]也。撫[#二]百姓[#一]示[#二]儀軌[#一]。開[#二]誠心[#一]布[#二]公道[#一]。盡[#レ]忠益[#レ]時者。雖[#レ]讐必賞。犯[#レ]法怠慢者。雖[#レ]親必罰。……善無[#二]微而不[#一レ]賞。惡無[#二]纖而不[#一レ]貶。……刑政雖[#レ]峻、而無[#二]怨者[#一]。以[#二]其用[#レ]心平、而勸戒明[#一]也。
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この陳壽はもと蜀の人で、その父の時代から、種々の事情で、諸葛一家に對して、餘り好い感情をもたぬ筈の人であるから、寧ろ孔明を實際以上に貶しても、實際以上に褒めることのない人であるが、その陳壽の評にして右の如くである。
孔明は必罰主義で隨分人を罰したが、決してそれ
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