等の人々から怨を受けぬのみか、却つて心服されて居つた。それは彼に暖い涙があつたからである。彼は第一囘の北伐の時に、大將の馬謖《バショク》が彼の指揮に違背して敗軍した罪を正すべく、之を誅戮した。馬謖は孔明の尤も親愛した軍人で、馬謖自身も明公(孔明)視[#レ]謖猶[#レ]子、謖視[#二]明公[#一]猶[#レ]父と申して居る。眞に父子同樣の間柄であつた。併し法の前には私情を容れぬ。孔明は馬謖の罪を正した後ち、泣いてその靈を祭り、又よくその遺族を保護した。
孔明は又廖立といふ官吏を罪して、身分を平民に下げて、遠隔の地へ流謫した。又李平といふ兵糧方の總大將の不都合を責めて、この人をも流謫した。この二人は孔明の死を聞いて、何れも悲泣し、殊に李平の如きは、悲嘆の餘り、遂に病を發して死んだと傳へられて居る。此の如きは畢竟孔明の所置に一點の私心がなく、罰せられた者も得心して、罪に服したからである。
『孟子』の盡心章上に、「以[#二]佚道[#一]使[#レ]民。雖[#レ]勞不[#レ]怨。以[#二]生道[#一]殺[#レ]人。雖[#レ]死不[#レ]怨[#二]殺者[#一]」と述べて居るが、その道理を事實の上で立證したものは孔明である。孔明によつて孟子の所説の眞理なることが證明される。政治の眞諦は古今同一である。今日わが國の政治家にも、この佚道と生道とを忘れぬ樣に心掛けて貰ひたいものと思ふ。
(※[#ローマ数字3、1−13−23])清廉寡欲
『三國志』の諸葛亮傳に、
[#ここから2字下げ]
初亮自表[#二]後主[#一](劉禪)曰。成都有[#二]桑八百株。薄田十五頃[#一]。子弟衣食。自有[#二]餘饒[#一]。……不[#下]別治[#レ]生以長[#中]尺寸[#上]。若臣死之日。不[#レ]使[#下]内有[#二]餘帛[#一]。外有[#二]贏財[#一]。以負[#中]陛下[#上]。及[#レ]卒如[#二]其所[#一レ]言。
[#ここで字下げ終わり]
と見えて居る。孔明は十餘年の間、蜀の全權を握つて居つた。發財蓄積意の儘である。たとひ彼自身進んで富を求めずとも、周圍から不知不識の裡に、富を齎らし易い。然も孔明の清廉右の如くである。孔明の如き清廉の人物は、廣く世界を見渡しても、餘り類多くなからうと思はれるが、殊に生命より財寶を大切にする程、利慾心の強い支那人の間に在つて、孔明の清廉は、一層の光輝を發揚する
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