や張飛は早く非命に斃れ、趙雲一人は生存したが、之も久しからずして世を辭し、その以後には名ある大將は殆ど存在せぬ。文官の方は一層淋しい。魏は流石に中原を領して、人物雲の如くにある。呉も早く東南に據つて、相當人物も集つた。獨り劉備は久しく流浪生活を營んだ爲、人物を招致する機會を失つた。最後に蜀に根據地が出來たが、邊鄙で人物に乏しい。孔明一人が特に傑出して居つたのと、その他に人物がなかつたのと、この二理由が、勢ひ孔明をして多忙過勞に陷らしめたのである。
五 諸葛亮(中)
蜀の内治が略整理がつくと、孔明は西暦二百二十七年に、始めて魏を伐つべく出征する。この時劉禪に上つたのが、かの前出師表で、所謂鬼神をも泣かしむると評さるる程の名文である。字句に何等の技巧はないが、全篇赤心の結晶である。爾來孔明は七年の間、その死に至る間際まで、餘事を擲つて再三再四出征を續けたが、蜀から魏へ出征するには、軍糧運搬に想像以上の困難があるのと、又孔明の計畫を實行するだけの大將が不足した等の原因で、十分の成功を見得ぬ間に、彼は出征の軍中で病死した。そは西暦二百三十四年で、彼の五十四歳の時であつた。今少しく彼に年を假さばとは、誰人にも起る同情である。
一體魏を征伐することは、可なり困難な事業であつた。當時魏の口數は四百五十萬、蜀の口數は九十萬で、蜀の魏を伐つのは、兵力・資力五倍以上の敵を相手とする譯である。當時から痛く孔明の計畫に反對した人もあつた。孔明自身もよくその困難を承知して居つた。故に彼の後出師表に、
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漢賊不[#二]兩立[#一]。王業不[#二]偏安[#一]。……然不[#レ]伐[#レ]賊。王業亦亡。惟坐待[#レ]亡。孰[#二]與伐[#一レ]之。……臣受[#レ]命之日。寢不[#レ]安[#レ]席。食不[#レ]甘[#レ]味。思[#二]惟北征[#一]。……臣鞠躬盡[#レ]力。死而後已。至[#二]於成敗利鈍[#一]。非[#三]臣之明。所[#二]能逆覩[#一]也。
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と述べて居る。然らば何が故にその困難を冒して北征を續けたか。それには強い理由がある。漢は東西を通じて、天下に君臨すること四百年に達し、その餘澤は深く人心に浸潤して居る。劉備は漢の疎屬として、世人の彼に漢の再興を期待するもの多く、劉備も亦漢の再興を標榜した。故に漢祚を簒奪し
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