南の地に據り、父兄三代の基礎堅ければ、之を味方に利用して、巴蜀の方面に新に立脚地を求めねばならぬといふのである。
 所が時局が豫期以上に切迫して、その翌年に曹操が荊州に侵入すると同時に、劉表は病死した爲、荊州は一旦曹操の手に歸する。劉備は殆ど身を容るるに所なく、難を南に避けて、救を孫權に求めることとなつた。この時劉備の使者となつて、孫權を説服に出掛けたのが孔明である。孔明が首尾よく孫權を説服して、味方に引き入れた結果として、有名な赤壁の戰が起つた。この赤壁は今の湖北省の嘉魚縣附近で、夏口(漢口)の上流に當る。蘇東坡の赤壁賦の赤壁は夏口より下流で、今の湖北省の黄岡縣に當る。故に蘇東坡は西望[#二]夏口[#一]と記して居る。三國時代の赤壁なら、西望[#二]夏口[#一]でなく、東望[#二]夏口[#一]でなくてはならぬ。東坡が歴史地理に暗くして誤を傳へて以來、黄岡縣の赤壁が普通に古戰場として認めらるる樣になつた。さてこの赤壁の戰に曹操が失敗して、南支那併合の機を失すると共に、孫權は揚子江中流以下の南支那を占領し、劉備はやや後くれて、建安十九年(西暦二一四)に江を溯りて巴蜀をとり、かくて天下が三分して、魏・蜀・呉三國鼎立の姿となつた。
 劉備は蜀を占領して國を建てたが、その整理がつかぬ中に、西暦二百二十三年に世を辭し、十七歳の劉禪がその後を承けた。劉禪は年も弱《わか》し、質も凡庸であつたから、劉備の遺命を受け、後事を託された、孔明の苦勞は並々でない。丁度この時四十三歳になつた孔明は、丞相として一國の政治を統べ、又益州牧を兼ねて親しく地方行政に當り、又その以前から司隷校尉をも兼ねた。一口に申せば、彼一人で總理大臣、東京府知事、警視總監を兼務するので、その多忙なること設想以上である。殊に責任感の強い彼は、決して職務を忽にせぬ。罰二十以上皆親覽といふ有樣で、多忙以上の多忙を極めた。やがて蜀が南征北伐と軍を出す時には、孔明が必ず軍を統率したから、陸軍大臣に司令長官の職を兼ねた譯である。從つて孔明は文字通りに寢食の暇がなかつた。之に就いて當時心ある者は孔明の過勞を諫めた事もある。されど孔明がかく多忙を極めねばならぬ已むを得ざる事情があつた。即ち蜀には文武の人材が痛く缺乏して居つた。孔明一人は太陽の如く輝いて居るが、その以外の人物は誠に寥々である。軍事には關羽・張飛・趙雲があつたが、關羽
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