あり、又張騫の事蹟も、大正五年二月發行の『續史的研究』中に掲げてあるから(本全集第三卷所收)、茲には始皇帝と張騫との事蹟を掲載することを省略して、直に第四の諸葛亮、即ち諸葛孔明の事蹟を紹介する。
 一體支那人には表裏が多い。看板と實際とは大抵一致せぬ。彼國の梁啓超の如きも、支那通有の一缺點として、好僞を擧げて居る。古來有名な支那の政治家や軍人を見渡しても、心と口と、口と行とは、別々となつて居て、人の反感をそそる樣な人物が多い。この間に在つて、獨り諸葛亮のみは至誠一貫して、その行動に一點の不純をも認めぬ。誰人と雖ども諸葛亮には深厚なる同情を起し、又誰人でも諸葛亮からは至大なる教訓を受けることが出來る。從つて古來人物評をする學者の中に、殆ど一人も諸葛亮を非難した者がない。机上の書生論で、隨分吹[#レ]毛求[#レ]瘢的の評論を好む宋の儒者でも、諸葛亮だけは大抵は無條件で奬推する。張拭(南軒)や朱子の如き、皆彼を推して三代以後の第一人者とする。支那人嫌ひで有名な平田篤胤の如きも、諸葛亮に對しては、最上級の贊辭を惜まぬ。
[#ここから2字下げ]
此人生涯の行は、唐人ながら篤胤實に間然すること能はず。孔子の後たつた一人の人と思はる。……諸越人の言に、孔子以前無[#二]孔子[#一]。孔子以後無[#二]孔子[#一]といつたが、篤胤は孔子以後唯有[#二]孔明[#一]と思はるることで御座る(『西籍概論』卷三)。
[#ここで字下げ終わり]
 さて諸葛亮は字は孔明といふ。瑯邪陽都人といふから、今の山東省沂水縣附近に生れたのである。彼の兄の諸葛瑾は、後に呉に仕へて大臣となり、徳行の高き人で、呉主の孫權に信任せられたこと、殆ど劉備と孔明の如き有樣であつた。諸葛亮は東漢の靈帝の光和四年(西暦一八一)に生れた。早く父を喪ひ、從父の諸葛玄の保護を受けた。その從父が荊州牧劉表の許に世話になつたから、自然諸葛亮も亦荊州に住むこととなつた。やがて從父の死後、彼は襄陽附近の田舍に退隱した。丁度その頃劉備が曹操の爲に逐はれて、荊州の劉表の許に身を託したから、茲に兩人接近の機會が出來た。かの有名なる草廬三顧は、獻帝の建安十二年(西暦二〇七)即ち孔明の二十七歳の時の出來事である。この時孔明は早く已に天下三分の計畫を定めた。曹操は最早天下の十の七を手に入れ、兵士も多く物資も豐で、到底正面から之に抵抗し難い。孫權は東
前へ 次へ
全14ページ中8ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング