採用したこともある。また時には四川や嶺南の如き、邊裔の蠻民を捕獲して宦官とすることもある。唐の玄宗時代の有名な宦官の高力士の如き、廣東南邊の蠻僚出身である。明の英宗時代に、貴州方面の苗族を征伐して捕獲した、小童千五六百人を宦官とした事實もある。また元・明時代には、高麗・女眞・安南出身の宦官が、尠からず支那宮廷に奉仕して居つた。此等の宦官は何れもその本國から、支那の宮廷へ貢進したものと想はれる。現に朝鮮の記録を見ると、明の永樂元年(西暦一四〇三)に、朝鮮では明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質悧發な火者三十五名を選拔して、支那へ貢進し、その後も再三同樣の貢進をして居る。
 この火者とは、もと印度語《ヒンドスタニ》のコヂヤ(Khojah)を訛つたもので、印度の囘教徒は割勢者を指して、普通にコヂヤといふ。元時代から明時代にかけて、印度から割勢した奴隷を南支那に輸入した樣で、この奴隷の輸入と共に、コヂヤといふ印度語が南支那に傳はり、支那人はコヂヤに火者の字を充て、宦官を意味することとなつたものと解釋される。『明律』や『清律』に、閹割火者とあるが、こは單に火者と稱しても可なれど、外國語の音譯にて
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