の及落が試驗官の自由に在ると同樣なることを申述べたものである。

         二

 宦官は天子の後宮に限つた譯でなく、周時代には諸侯、若くは諸侯以下の相當身分ある家の奧向にも、宦官を使役した。後世宋・明時代まで民間、殊に南支那の民間では、奴隷を割勢して、奧向に使役した事實がある。併し明以後殊に清朝では、民間に割勢者を蓄養することを嚴禁し、皇室及び皇室より特許された王公大臣の邸宅に於てのみ、宦官を使役した。
 宦官はもと宮刑に處せられた罪人を以て之を補充した。宮刑とは五刑の一で、淫刑とて主として不義者に加へる刑罰であるが、不義者以外の重い犯罪者にも宮刑を施した。殊に宦官の不足する場合には、死刑に處すべきものを、一等減刑して宮刑に處し、若くは謀反者の遺族を宮刑に處して、之を補充するのが普通であつた。又稀には自宮とか私白とか申して、無罪の者が自分で割勢して、宦官を志願する場合に、之を採用したこともある。
 隋時代以後宮刑が廢止となると、宦官の供給が種切れとなる。從つて隋唐以後の宦官は、志願者で補充するのが原則となつた。しかし必要の場合には、從前同樣に、死罪の者を輕減し、割勢して宦官に採用したこともある。また時には四川や嶺南の如き、邊裔の蠻民を捕獲して宦官とすることもある。唐の玄宗時代の有名な宦官の高力士の如き、廣東南邊の蠻僚出身である。明の英宗時代に、貴州方面の苗族を征伐して捕獲した、小童千五六百人を宦官とした事實もある。また元・明時代には、高麗・女眞・安南出身の宦官が、尠からず支那宮廷に奉仕して居つた。此等の宦官は何れもその本國から、支那の宮廷へ貢進したものと想はれる。現に朝鮮の記録を見ると、明の永樂元年(西暦一四〇三)に、朝鮮では明の皇帝の聖旨を奉じ、容姿閑雅、性質悧發な火者三十五名を選拔して、支那へ貢進し、その後も再三同樣の貢進をして居る。
 この火者とは、もと印度語《ヒンドスタニ》のコヂヤ(Khojah)を訛つたもので、印度の囘教徒は割勢者を指して、普通にコヂヤといふ。元時代から明時代にかけて、印度から割勢した奴隷を南支那に輸入した樣で、この奴隷の輸入と共に、コヂヤといふ印度語が南支那に傳はり、支那人はコヂヤに火者の字を充て、宦官を意味することとなつたものと解釋される。『明律』や『清律』に、閹割火者とあるが、こは單に火者と稱しても可なれど、外國語の音譯にて
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