[#レ]守[#レ]門。※[#「鼻+りつとう」、第3水準1−14−65]者使[#レ]守[#レ]關。※[#「月+りつとう」、第4水準2−3−23]者使[#レ]守[#レ]囿。宮者使[#レ]守[#レ]内。
[#ここで字下げ終わり]
とあつて、罪人をそれぞれ宮廷に使役し、宮者は後宮に使役することになつて居る。學者の中には、周は西方から支那に移住して來た異人種の建てた國で、彼等は西方で行はれて居つた宦官の風を、始めて支那に輸入したと主張する人もある。併し支那人は頗る嫉妬心の強い國民である。『禮記』等を一讀すれば容易に了解さるる如く、彼等は古く男女の間に於ける疑を避くる爲に、吾人の想像以上に、神經過敏なる種々の禮儀や作法を設けて居る。かかる氣質の支那人の間に、男女間の嫌疑を避け、嫉妬心を慰安する方便として、中性の宦官を使役するに至るは、寧ろ當然の順序かも知れぬ。支那に於ける宦官の起源を、必ずしも西方の風習に關係せしめて説明するに及ばぬかと思ふ。
宦官の起源は兔に角、春秋戰國時代となると、宦官は已に政治上で可なり勢力を占めて來た。齊の桓公の死後、齊を亂した豎※[#「刀」の「ノ」が横向き、第3水準1−14−58]の如き、晉の文公に信任された寺人の勃※[#「革+是」、第3水準1−93−79]の如き、その一例である。内豎といひ、寺人といひ、又奄人といふは、皆宦官のことである。有名な商鞅が秦に重用されたのも、宦官景監の手引により、藺相如が趙に出世したのも、宦官繆賢の推擧によるといふ。秦時代には遂に趙高の如き、權勢を專らにして弑逆をも行ふ宦官が出て來た。此等古代の宦官の事蹟は、ほぼ『後漢書』の宦者傳序に備つて居るから、茲に態※[#二の字点、1−2−22]紹介するを要せぬ。
漢以後に出た重なる歴代の宦官の事蹟は、支那史乘に詳記されて居つて、これも一々紹介する必要がない。歴代の中でも、東漢・唐・明の三代が、宦官の尤も權力を振ふた時代で、この三代の中でも、唐が一番甚しい。唐の中世以後は、大臣の任免は勿論、天子の廢立すら宦官の意の儘であつた。當時宦官を指して定策國老と呼び、之に對して皇帝を門生天子と稱した。定策國老とは、試驗官に當る國家の元老といふ意味で、門生天子とは、その試驗官の檢定で、及落を決定せらるる受驗生の天子といふ意味である。天子廢立の全權が、宦官の掌裡に在ること、宛《あたか》も受驗生
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