、醜穢なる事實が、明代の記録に疊見して居る。
併し宦官の情事は變態である。彼等は色情を制限されて居る結果、利慾心が一倍強い。從つて勢力ある宦官の納賄得利の程度は、吾人の想像以上である。常に君側に左右して、傳達を掌どる彼等は、その一言一行によつて、他人に大なる影響を與へることが出來る。嘗て或る大官が、皇室へ見事なる品物を獻上した時、宦官への心附け十分でなかつた爲、彼等は故意にこの獻上品に毀損を加へ、是に由つてその大官は主君の御不興を蒙つたといふ。〔又嘗て太后や皇帝が地方巡幸の際、その地方の長官の心附け不足に不滿を懷いた宦官達は、長官の調進した心盡くしの料理に、中間で勝手に多量の鹽を加へて、その長官を失敗せしめた實例もある。〕兔に角宦官の歡心を買うて、位置の安全を圖るのが、支那官場の常態となつて居る。殊に天子が宴樂に耽る場合や、太后が垂廉の政を行ふ場合には、宦官に對する心附けの必要なること申す迄もない。宦官が發財致富の根源はここに在る。明の宦官王振の家産を沒收した時、金庫銀庫併せて六十餘棟に及び、珊瑚樹の高さ六七尺のもののみにても、二十餘株あつたといふ。同じく劉瑾の家産を沒收した時は、黄金二百五十萬兩、銀五千萬兩、他物之に副ふといふ有樣であつた。清の李蓮英も隨分蓄財して、その額五千萬圓に達すると噂されたが、義和團の亂に、北京を後に西安へ出奔した際、已むを得ず莫大なる金銀を土中に埋沒して置いた。この埋藏金銀は不幸にして、蛙にも化けずにその儘、北京占領の外國軍隊に發見沒收された。明治三十五年の春、彼は西太后・光緒帝と共に、西安より北京に歸ると、この埋合せに盛に收賄して、爾後七年間に約二千五百萬圓の蓄財をしたと傳へられて居る。宦官の弊竇は實にここに在る。
六
多數の宦官の中には、勿論忠義の人、正直の人もないではない。中には東漢の蔡倫の如き、始めて紙を發明して、世界の文化に大なる貢獻をなした宦官もある。又明の鄭和の如き、遠くアフリカの東海岸近くまで航行して、國威を輝かした宦官もある。併し此の如き宦官は、曉天の星と一般、誠に寥々として、明の太祖のいはゆる千百中不[#二]一二見[#一]もので、彼等の大多數は、もともと權勢利慾を目的に入内したのであるから、その國家を蠧毒すべきは、冒頭より豫期せなければならぬ。
所が不思議なことは、支那の政治家や經學者などに
前へ
次へ
全8ページ中7ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
桑原 隲蔵 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング